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壺中の別天地-その4・下関篇-

固定リンク | 2017年09月02日【12】

壺中の別天地-その3・奈良篇-

●今月の「壺中の別天地」と居酒屋紀行は奈良と「司馬遼太郎記念館」でした。日本史は選択していませんでしたので少し不得手であります。子供の中学・高校の教科書を参考にして復習してみますか。ここでのまずは「邪馬台国」から話をはじめましょう。(それ以前の、たとえば「三内丸山遺跡」(青森市)などについては秋の版にしようと計画しています)。邪馬台国が存在した地域で最も有力なのは奈良県桜井市の三輪山の北西麓一帯にある纒向遺跡(まきむくいせき)とされ、ここには弥生時代末期から古墳時代前期にかけての集落遺跡があります。
596年(推古4):蘇我馬子が法興寺(飛鳥寺)を建立。
601年(推古9):聖徳太子斑鳩宮を造営。
607年(推古15):聖徳太子が法隆寺を建立。
643年(皇極2):朝廷を飛鳥板蓋宮(飛鳥宮)に移す。
645年(皇極4):中大兄皇子と中臣鎌足が飛鳥宮で蘇我入鹿を暗殺(乙巳の変)。
670年(天智9):法隆寺焼亡。
672年(弘文・天武1):壬申の乱飛鳥浄御原宮に遷都。
694年(持統8):藤原京に遷都。
710年(和銅3):平城京に遷都。奈良時代へ
712年(和銅5):「古事記」完成。
720年(養老4):「日本書紀」完成。
752年(天平勝宝4):東大寺大仏開眼東大寺二月堂修二会開始。
753年(天平勝宝5):唐の僧・鑑真来日。
759年(天平宝字3):鑑真が唐招提寺創建。
768年(神護景雲2):春日大社創建。
794年(延暦13):桓武天皇が平安京に遷都。平安時代始まる
つづく。7月16日。

●ランキングもさまざまでしょうが、「歴男が選ぶおすすめの奈良の寺院ランキング」というものがネットにありました。10位が長谷寺、9位が談山神社、8位が橿原神宮、7位が室生寺、6位が唐招提寺、5位が薬師寺、4位が興福寺、そしてベスト3は、3位が春日大社、2位が法隆寺、1位が東大寺・・・・・・でした。ベスト10はランキングの調査方式でいろいろのようですが、1位が東大寺、2位が法隆寺というのは多くのランキングで一致しているようです。私の今回の奈良の旅は、恥ずかしいながら初めてであります。高校の修学旅行の3つのコースのひとつが奈良・京都方面だったと記憶しています。その時は経済的な理由で参加できませんでした。それだけに今回の事前調査には念を入れました。奈良の有名寺院を隈なく訪問するには1週間も2週間も掛かることが分かりましたので、それならばランキングを見てみようと考えました。そうすると私の考えいたった順位と歴男ランキングがほぼ一致していたので、我ながら偶然の御満悦といったところでした。今回は時間も極めて限られ、それも急遽夕刻には上京する羽目になりましたので、せいぜい2箇所に絞らなくてはなりませんでした。司馬さんの「街道をゆく・24・近江散歩/奈良散歩」には宮大工、西岡常一氏の「いい話」を引用しながら薬師寺の技術的な優越性が書かれていますし、井上靖の「天平の甍」の鑑真和上像のある唐招提寺も外せないのですが、鑑真さんは年に3日間(6月5・6・7日)しか開帳されません。結局そんなこんなの理由で、東大寺と法隆寺を選択しました。東大寺南大門の金剛力士立像大仏殿の大仏様法隆寺五重塔正岡子規の「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」の句碑です。そして何よりは東大阪市の「司馬遼太郎記念館」です。つづく。7月16日。

法隆寺とは・・・・・・入場チケット付属の「法隆寺畧縁起」を参照。
○法隆寺は飛鳥時代の姿を現在に伝える世界最古の木造建築。
○用明天皇が自らの病気の平癒を祈るため寺と仏像を造ることを請願したが、実現の前に崩御。
○推古天皇と聖徳太子(574〜622・用明天皇の皇子)が用明天皇(?〜587・在位585〜587)の遺願を継いで、推古15年(607)に建立。
○本尊は「薬師如来」。
○境内の広さは18万7千平方メートル。
○国宝・重要文化財は約190件、総点数は約3000点。
○1993年12月、ユネスコの世界文化遺産として日本初の登録。

<国宝・法隆寺金堂(飛鳥時代・仏教渡来から大化の改新=645年まで or 聖徳太子摂政就任の593年〜大化の改新または平城遷都=710年まで)>
○法隆寺御本尊を安置。
○聖徳太子のために造られた金銅釈迦三尊像(飛鳥時代)。用明天皇のために造られた金銅薬師如来坐像(飛鳥時代)。聖徳太子の母君穴穂部間人皇后のために造られた金銅阿弥陀如来坐像(鎌倉時代)。樟で造られた日本最古の四天王像(白鳳時代)などの仏像が安置される。

<国宝・法隆寺五重塔(飛鳥時代)>
○塔はストゥーパともいわれ、釈尊の遺骨を奉安するための建物。
○仏教寺院で最も需要な建物。高さ32.5mの、わが国最古の五重塔である。
○最下層の内陣には、奈良時代のはじめに造られた塑像群がある。

<現存の法隆寺再建の謎>
○法隆寺は607年、聖徳太子が飛鳥から斑鳩へ都を移す時に建てられた(聖徳宗の総本山)。法隆寺は607年、聖徳太子が飛鳥から斑鳩へ都を移す時に建てられた(聖徳宗)。法隆寺の一翼を担う西院伽藍を形成する法隆寺金堂、五重塔、中門に使用されているヒノキやスギの部材は650年代末から690年代末に伐採されたものであるとされ、法隆寺西院伽藍は7世紀後半の再建であることが確定している。問題は、金堂の部材が年輪年代からみて650年代末から669年までの間の伐採で、日本書紀の伝える法隆寺炎上の年である670年よりも前の伐採と見られることである。伐採年が日本書紀における法隆寺の焼失の年(670年)を遡ることは、若草伽藍が焼失する以前に現在の伽藍の建築計画が存在した可能性を示唆している。法隆寺の建立と再建には現在も諸説存在するが、発掘調査などにより、若草伽藍跡こそが創建法隆寺であり、これが一度焼失した後にあらためて建てられたものが現存する法隆寺西院伽藍であるということが定説となっている。五重塔の心柱の用材は年輪年代測定によって確認できる最も外側の年輪が594年のものであり、この年が伐採年にきわめて近いと発表されている。他の部材に比べてなぜ心柱材のみが特に古いのかという疑問が残っているが、心柱材については、聖徳太子創建時の旧材を転用したとも考えられている。
若草伽藍(わかくさがらん):奈良県生駒郡斑鳩町の法隆寺西院伽藍南東部の境内から発見された寺院跡である。創建時の法隆寺であると考えられることから、創建法隆寺とも呼ばれる。(Wikipediaなど参考・転写)。つづく。7月21日。

●法隆寺を訪ねた目的のもうひとつは(勿論いちばんは世界最古の木造建築をこの目で見ることでした)、正岡子規の句碑と並んで写真を撮ることでした。「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」は、正岡子規が生涯に詠んだ20万のうち最も有名な句であり、芭蕉の「古池や蛙飛びこむ水の音」と並ぶ日本の2大名句(誰でも知っている大衆句として)であります。「法隆寺に立ち寄った後、茶店で一服して柿を食べると、途端に法隆寺の鐘が鳴り、その響きに秋を感じた、というのが句意である。・・・・・・『鐘が鳴るなり』と因果関係があるわけではない。柿は大和名産の御所柿と思われる。」とWikipediaにあります。法隆寺では作務衣を着た10人ほどの係員が案内していましたが、句碑のある池の辺に近づくとそのひとりが「秋には門前で柿2個が配られますよ」と教えてくれました。JA奈良が奈良特産の柿を多くの人に知ってもらおうと、「柿の日」の10月26日に法隆寺でも無料で配布するそうです。法隆寺の時の鐘が鳴るのを待って食うのでしょう・・・・・・。7月22日。

●奈良・東大寺の本尊である大仏の正式名称は、東大寺盧舎那仏像(とうだいじるしゃなぶつぞう)であり、金堂は東大寺大仏殿(国宝指定は1952年=昭和27)です。聖武天皇の発願で天平17年(745年)に制作が開始され、天平勝宝4年(752年)に開眼供養会(かいげんくようえ、魂入れの儀式)が行われました。その後、中世、近世に焼損したため大部分が補作されており、当初に制作された部分で現在まで残るのはごく一部であります。 「銅造盧舎那仏坐像」の名で彫刻部門の1958年(昭和33)、国宝に指定されました。以下も以上もですが、東大寺大仏建立までの経緯を、Wikipediaの文章を借用させてもらいます。
「正史『続日本紀』、東大寺の記録である『東大寺要録』が引用する『大仏殿碑文』『延暦僧録』によれば、大仏造立の経緯はおおむね次の通りである。
天平12年(740年) - 聖武天皇は難波宮への行幸途次、河内国大県郡(大阪府柏原市)の知識寺で盧舎那仏像を拝し、自らも盧舎那仏像を造ろうと決心したという。(続紀)
天平13年2月14日(741年3月5日) - 聖武天皇が国分寺・国分尼寺建立の詔を発する。(類聚三代格など)
天平15年10月15日(743年11月5日) - 聖武天皇が近江国紫香楽宮にて大仏造立の詔を発する。(続紀)
天平16年11月13日(744年12月21日) - 紫香楽宮近くの甲賀寺に大仏の骨柱を立てる。(続紀)
天平17年(745年) - 恭仁宮、難波宮を転々としていた都が5年ぶりに平城京に戻る。旧暦8月23日(745年9月23日)、平城東山の山金里(今の東大寺の地)で改めて大仏造立が開始される。(碑文)
天平18年10月6日(746年11月23日) - 聖武天皇は金鐘寺(東大寺の旧称)に行幸し、盧舎那仏の燃灯供養を行う(続紀)。これは、大仏鋳造のための原型が完成したことを意味すると解される。
天平19年9月29日(747年11月6日) - 大仏の鋳造開始。(碑文)
天平勝宝元年10月24日(749年12月8日) - 大仏の鋳造終了。(碑文)
天平勝宝4年4月9日(752年5月26日) - 大仏開眼供養会が盛大に開催される。(続紀)」
つづく。7月23日。

●南大門
‥貘膸の正門で、現存する門では日本一。
∩老は天平勝宝8〜天平宝字6年(756〜762)と推定。
初代門は962年(応和2)の大風で倒壊。
ず瞳されるが、1180年(治承4)の兵火で消失。
ジ什澆瞭鄲臾腓蓮鎌倉時代、東大寺復興を推進した重源(1121〜1206)が再建し、1199年(正治元)に上棟。
再建には中国の工人・陳和卿(ちんなけい)らの知識を総動員し、新たな工法を考案した。重源はその前、三度宋に渡って南宋の建築様式(大仏様=天竺様)を見聞。天井は張らずに構造が露見。肘木という材が柱を貫通。この様式は和様建築にはない。これで耐震性は抜群のアップ。
参考「ガイドブック東大寺 散策案内 歴史と美術」(社)大仏奉賛会 発行・東大寺監修・文 石井亜矢子・2002年発行。

●金剛力士立像
〇を外敵から守る。仁王とも呼ぶ。
阿形と吽形が向かい合うのは他にない。
A高8m、総重量6t。国宝指定の木彫像では最大。1203年にわずか69日で完成。運慶・快慶・定覚(じょうけい)・湛慶(たんけい)ほか作。総指揮は運慶?
ご麑畋い里燭畭臾擇必要ない・分業できる・持ち運びが容易などの利点。1196〜1201年に伐採された周防国のヒノキ。
ソ蕕瓩脇邯きに並んで安置される予定が、制作過程で向かい合わせになったため、修正や手直しの跡がうかがわれる。8月3日。
参考「ガイドブック東大寺 散策案内 歴史と美術」(社)大仏奉賛会 発行・東大寺監修・文 石井亜矢子・2002年発行。

●大仏様と大仏殿(金堂)
南大門を抜けると真正面が東大寺大仏殿である。御本尊を安置する建物で、金堂ともいう。東大寺の御本尊は盧舎那仏(毘盧遮那仏とも)で、天平17年(745)に聖武天皇の発願により銅像の大仏様の建立が決定。天平19年(747)に大仏鋳造が開始。天平勝宝4年(752)に大仏が完成し、盛大に開眼供養会が営まれた。大仏の高さは18m、使用した同派500tに及ぶという。大仏殿はその後から建設が始まり、天平勝宝9年(757)の聖武天皇一周忌に完成したと推定されている。造立後の大仏様は、1180年(治承4)と1567年(永禄10)の2度、兵火によって多大の損壊を受けた。大仏殿は最初の兵火で消失、1195年に再建されたが、2度目の兵火後は長く再建されず、1692年(元禄5)に再建された。現在の大仏様は、この元禄時代の3代目の建物である。正面幅は57m、高さは49mであり、世界最大の木造建築である。再建された大仏殿は、創建時の建築様式(中国・唐の様式)とは異なり、正面の大きさも1.5倍であった。現在の南大門は鎌倉再建時の大仏殿建築様式を偲ばせる建築である。しかし大仏様は、銅製であるため、大仏殿の全壊に比べ損傷は少なく、後かともなく溶け落ちることはなかった。とくに下半身から蓮華座にかけては創建時のままという。その都度、修理を行ったため、今の大仏様は、顔はつるつるだが、体には無数の傷が残る。大仏様の掌には水掻きが見られる。これは大海原も泳ぐ苦行の為、水1滴も漏らさず人々をすくい上げるためとも。8月6日。
参考「ガイドブック東大寺 散策案内 歴史と美術」(社)大仏奉賛会 発行・東大寺監修・文 石井亜矢子・2002年発行。



固定リンク | 2017年07月16日【14】

壺中の別天地-その2・函館篇-

●「壺中の別天地」・函館篇土方歳三は最期、五稜郭を馬に乗って出、官軍の中を悠然と通過してゆく。「名は何と申される」の問いに、土方は「名か」・・・「新選組副長土方歳三」と応え、なおも馬の歩をゆるめず・・・官軍の射撃の弾は馬上の歳三に命中し、その身は馬腹を蹴って馬の頭上を跳躍・・・これが歳三絶命の瞬間であった(司馬遼太郎「燃えよ剣・下」pp542〜543を参照)。司馬さんは、土方歳三の最期を栄国橋とし、埋葬地は函館市内の納涼寺としている。しかしその埋葬地については五稜郭の桜の下とも、「土方歳三最期の地碑」のある一本木関門付近(最も有力な説)とも・・・諸説あるが定かでない。掘り起こそうにも戦死した五稜郭軍の多くの兵士とともに埋葬されているから・・・無理と云うものだ。歳三に限らず勇敢に戦った戦士に無礼であり、安穏に眠っていていただきたい。Wikipediaでは、「明治2年(1869年)5月11日、新政府軍の箱館総攻撃が開始され、島田魁らが守備していた弁天台場が新政府軍に包囲され孤立したため、歳三は籠城戦を嫌って僅かな兵を率いて出陣。新政府軍艦『朝陽』が味方の軍艦によって撃沈されたのを見て『この機会を逃すな!』と大喝、箱館一本木関門にて陸軍奉行添役・大野右仲に命じて敗走してくる仲間を率いて進軍させ、『我この柵にありて、退く者を斬る!』と発した。歳三は一本木関門を守備し、七重浜より攻め来る新政府軍に応戦。鬼のように戦い、馬上で指揮を執った。その乱戦の中、銃弾に腹部を貫かれて落馬、側近が急いで駆けつけた時にはもう絶命していたという。敵の銃弾ないしは流れ弾に当たったとするのが通説だが、降伏に頑強に反対する土方を除くために味方の手によって暗殺されたとする説もある。」と云う。土方歳三は真正面から戦い、逃走するやもしれぬ兵に対しても白刃突撃を最期まで命令したのであり、その結果仲間に裏切られ暗殺されたやも知れぬと云うことだ。7月3日。

●「夜、町へ出て宝来町で夕食をとった。その店の軒をくぐるとき、ふとふりかえると、坂ののぼり傾斜を背にして-つまりは海にむかって-銅像が立っているのに気づいた。食事を終えて出るとき、銅像の高い基壇に近づいて、下のほうの堂の文字をみると、高田屋嘉兵衛とあった。」(司馬遼太郎「街道をゆく15・北海道の諸道」・pp40〜41・高田屋嘉兵衛)。函館旅行のいちばんの目的は土方歳三の最期の地碑で合掌し、高田屋嘉兵衛の歩いた港界隈を散策することでした。初日に訪問した「高田屋嘉兵衛資料館」は休館日でしたので、翌日、「函館朝市」と「自由市場」を探索したのち、午前9時の開館を待って入館しました。私が一番乗りでしたが、次々にオヤジたちや老年夫婦、小学校の修学旅行生たちが入ってきて、たちまち十数名になっていました。資料館には背の高い高齢の男性キュレーター(学芸員)さんが親切丁寧に説明してくれましたが、次々の来館者に話は途切れ途切れで最後まで聞けませんでした。タクシーの運転手さんよりも私の方が物知りのことが少なくないんですが、流石はキュレーターさんだけあって、御当地でしか教えてもらえないことも沢山ありました。帰宮して「街道をゆく」を読み返しましたら、司馬さんが昭和41年1月に函館へ旅し、湯の川の旅館に宿泊した折、夜の寒さに凍えた話が「寒冷と文化」にあります。その時の旅館には薪ストーブがあったそうですが、夜中に自分で薪を補充する労働を怠ったために酷い目にあったというものです。日本で最初のストーブが資料館に鎮座していました(復元品ですが)。高田屋嘉兵衛(1769〜1827)もそのストーブの恩恵に与ったかと思いきやさにあらず・・・・・・この日本最古のストーブは1856年(安政3)に武田斐三郎が函館入港中のイギリス船にあったストーブを参考にして見よう見まねで完成させたそうです。武田斐三郎(1827〜1880)と言えば、そうです、五稜郭を設計・建設した大人物(偉人)であります。高田屋嘉兵衛に関しては司馬さんの「菜の花の沖」に尽きます。司馬さんは高田屋嘉兵衛を江戸時代の日本人でいちばんの偉人と讃えています。司馬さんの命日は「菜の花忌」であるように、司馬さんが最も愛した花の名前が「高田屋嘉兵衛」の小説です。ここでは「高田屋嘉兵衛資料館」のパンフレットを掲げて概要とします。7月4日。

●「当時人口3千人ほどの寒村であった函館は、高田屋によって街としての発展の基礎が作られた」と資料館のパンフにあります。高田屋嘉兵衛は現在ある「高田屋嘉兵衛資料館」の場所で造船所を営み、同時に国後・択捉島への航路を拓きながら多くの漁場を開拓した偉人であります。今の資料館は当時、波打ち際だったということですが、1801年から江戸幕府や高田屋嘉兵衛などにより函館港の埋立整備が始まったそうです。キュレーターさん曰く、「当時の函館の戸数は4〜5百戸で、人口は2千人ほどなんでしょうか」。嘉兵衛が函館に着目したのは「辰悦丸を入手した翌年の寛政9年(1796年)には、嘉兵衛は兄弟と力を合わせ、初めて蝦夷地まで商売の手を広げた。当時、蝦夷地を支配していたのは松前藩で、その城下にあたる松前では近江商人などが利権を確保しており、新参者が参入する余地はなかったようである。そこで嘉兵衛は、当時松前の三湊といわれた松前、江差、箱館の中でも、まだほとんど開発されていなかった箱館を拠点とし、寛政10年(1798年)に弟の金兵衛を箱館の支配人とした。」とWikipediaにあります。稲が日本列島に伝来する縄文期終了まで、北海道はアイヌなどオホーツク人の人たちが住んでいた島であったのでしょう。記紀によれば、古墳時代後期には阿倍臣(あべのおみ)が北海道にも渡ったという。(しかし当時の北海道は稲作に不適であった)。鎌倉・室町期になると人間が集団を組み、たとえば岩手の南部氏は甲州(山梨県)から徒党を組んで海路やってきて征服事業をしたという。北海道南部を支配して松前氏は1451年(宝徳3)、若狭から出奔してやってきたのである。この松前氏は明治維新まで5百年続いた。嘉兵衛が鬼籍に入って27年後の1854年(嘉永7)、ペリーが函館に来たころの函館の戸数は千戸まで膨らんでいたのです。(司馬遼太郎「街道をゆく15・北海道の諸道」を参照)。7月4日。

高田屋嘉兵衛(1769〜1827)は1世紀早い日露戦争を回避させた功労者でもあります。そうです、世に有名な「ゴローニン事件」であります。ロシアの南下政策は今始まったことではありません。18世紀江戸後期から、ロシアは千島を圧迫し、鎖国下の江戸幕府との間で緊迫した情勢が続いていました。 ロシア艦船ディアナ号艦長、ゴローニン(1776〜1831)は1811年クナシリ島で7人の船員と共に日本側に囚われ箱館へ護送され、さらに松前に移されました。ゴローニンの松前幽閉期間は実に2年3カ月でした。翌1812年8月14日、ディアナ号副艦長のリコルド(1776〜1855)が率いるデイアナ号によって身代わりとして、たまたまクナシリ島沖を航行中であった嘉兵衛の観世丸を拿捕したのです。嘉兵衛は、乗組員60人ほどから嘉兵衛が選んだ4人と共にカムチャッカに連行され、8カ月間もの間、厳冬の中に幽閉されました。その間、リコルドほかのロシア人と信頼関係を深めたことで、松前奉行の委任を受けてゴローニン釈放の折衝役をにその身を挺して努め、1813年9月26日、遂にゴローニンの釈放を実現させました。高田屋嘉兵衛といえば「ゴローニン事件」、「ゴローニン事件」といえば嘉兵衛です。資料館でゴローニン著の「日本幽囚記・機銑」(佐藤智之訳)とリコルド著の「対日折衝記・1812年と1813年における日本沿岸航海と日本人との交渉」(佐藤智之訳)を買いました。その中でゴローニンは嘉兵衛のことを「高潔で尊敬できる日本人」と称賛しています。嘉兵衛については多くの時間、直接語りあったリコルドの著書の方に嘉兵衛の人となりが良く書かれています。一読ですな。7月5日。

啄木流浪中、妻節子一家を支えていたのが宮崎郁雨。郁雨は節子の妹の夫で、啄木からすれば義弟になる。啄木はその歌の内容とは異質な性格だったようで、「啄木は所謂『たかり魔』で、困窮した生活故に頻繁に友人知人からお金をせびっていた。特に先輩の金田一京助は樺太に出張中にも啄木から金の無心を受けた。・・・・・・啄木は各方面に借金をしており、またその事を自身で記録に残しているが、合計すると全63人から総額1372円50銭の借金をしたことになる。この金額の内、返済された金額がどれくらいあるかは定かではない(2000年頃の物価換算では1400万円ほど)。この借金の記録は、宮崎郁雨(合計額として最多の150円の貸し主)によって発表されたが、発表の後には啄木の評価は『借金魔』『金にだらしない男』『社会的に無能力な男』というのが加わるようになった。啄木は友人宛の手紙で蒲原有明を『余程食へぬやうな奴だがだましやすいか』、薄田泣菫や与謝野鉄幹を『時代おくれの幻滅作家』と記すなど、自身が影響を受けたり世話になった作家を侮辱したほか、友人からの援助で生活を維持していたにも関わらず『一度でも我に頭を下げさせし 人みな死ねと いのりてしこと』と詠んだ句を遺すなど傲慢不遜な一面もあった。・・・・・・9月に郁雨が節子に送った無記名の手紙に『君一人の写真を撮って送ってくれ』とあったのを読み、これを妻の不貞と採った啄木は節子に離縁を申し渡すと共に、郁雨と絶交することを告げた。1911年9月16日付の啄木の妹・光子宛の葉書では、この事件を『不愉快な事件』と記している。」(Wikipediaより)・・・・・・この「不愉快な事件」の張本人(手紙の送り主)が郁雨であります。後日、人から、「友の恋歌の『友』とは、あなたではないですか?」と問われ、常に「あれは複数ですよ」と答えていたという・・・・・・から、これまた意味深な問答であります。いずれにせよ、郁雨が郁雨の妻の姉である節子を恋していたのは事実だそうです。啄木から絶縁されていたにも関わらず、節子の要望もあって啄木の墓碑建立や「啄木を語る会」を発足させるなどしていますから・・・・・・その当時の人間関係は複雑ですね。節子は啄木の死(1912年4月13日)の翌年(1913年)の5月5日、同じ肺結核で死亡(行年28)しています。郁雨は1962年まで生存しました。「函館の青柳町こそかなしけれ 友の恋歌 矢ぐるまの花」・・・・・・このような泥沼な人間関係を解すれば、何とも味わい深い、「矢ぐるまの花」が何とも鮮やかに輝いているようです。もちろんここの「矢ぐるまの花」はユキノシタ科の植物・ヤグルマソウではなく、キク科のヤグルマソウ(ヤグルマギクの別名)に違いありませんが。歌碑を鑑賞し、合掌し、公園の展望台から啄木一家の墓地がある立待岬を遠望した後、坂道を少し下ったところに「石川啄木居住地跡」の案内板があります。その近くを痩せこけた2匹の猫が怠そうに歩いていました。啄木も面倒見た猫の子孫かもしれません・・・・・・啄木の写し姿を見たようでした。7月6日。

●土佐高知の坂本龍馬記念館は来春まで1年間のリニューアル休館中。それ故「壺中の別天地」の「龍馬」行脚は来春以降になります。高田屋嘉兵衛資料館(末広町)と高田屋嘉兵衛像(宝来町)との間に「坂本龍馬像」(末広町)を発見しました。何故に函館に・・・・・・と思いましたが・・・・・・後の祭りでした。入館はせずに像の前で写真撮影しただけです。龍馬が北海道(蝦夷)の開発に並々ならぬ興味を抱いていた証拠の書簡があります。1867年(慶応3)3月3日、長州藩士・印藤肇宛てにかいた書簡です。龍馬が近江屋で暗殺(同11月15日)される8カ月前のものです。印藤肇は龍馬に接触した最初の長州藩士とされ、寺田屋事件で龍馬と一緒にいた三吉慎蔵を紹介したのも印藤であります。現存する龍馬から印藤宛ての書簡に、「小弟ハヱゾ(蝦夷)に渡らんとせし頃より、新国を開き候ハ積年の思ひ一世の思ひ出ニ候間、何卒一人でなりともやり付申べくと存居申候。其中助(伊藤)太夫事、別ニ小弟の志を憐ミ、且積年の思ひも在レ之、不レ屈して竊(ひそか)ニ志を振ひ居申候。」と書いています。銅像脇の碑には「小弟ハヱゾ(蝦夷)に渡らんとせし頃より、新国を開き候ハ積年の思ひ一世の思ひ出ニ候間、何卒一人でなりともやり付申べくと存居申候。」と刻まれています。印藤肇への龍馬の同じ書簡で、北海道開発の前段(前文)に「上一段二段の事どもつらつら案ずる所、彼竹島行の事ハ兼而(かねて)御聞ニ入置候通り、三大夫ニも御聞ニ入レ申セしニ、随分御同心ニ候て、何レ近日二度ビ関(下関)ニ出候而(て)決定可レ致との事なりし。其後ハまだニ御めニかゝらず、御返じを相待所ナリ。然ニ当今世上の人情目前の事斗でなけれバ、相談ハならぬ事故ニ諸人ハ竹島行の事共ハ、皆無用の事として大夫が遠大の策にハ随ふまじくか、然レバ其事ハ行ハれまじく残念の儀に相察し候。」と書いています。驚きですね・・・・・・竹島の開発にも言及しています。列強への驚異と確かな国の境界(領土)を強く認識していたことがうかがわれます。流石です・・・・・・先見の明に頭が下がります。尖閣も、北方領土への想いも・・・・・・龍馬があと20年生きてくれていたら・・・・・・と思わざるを得ません。7月7日。

世界三大夜景ナポリ香港、そして函館です。函館の2017年3月31日の人口は26万3750人です。人口は多くありませんが、何故に夜の絶景なのか・・・・・・函館は小児の出べそのように津軽海峡に面しています。ランドマークの函館山を突端に三方が海です。夜の海は暗黒ですから、出べその灯りは浮き上がるように鮮やかです。オレンジの街灯もインパクト充分です。5月にはもうひとつのランドマーク、五稜郭の桜がライトアップされ、さらに光を放つそうです。私は日暮れの1時間後にロープウエイで上りましたが、案内通り、日没後30分が最も見栄えするそうです。日没後は気温が下がり、水蒸気が濃縮されて空気の透明度が下がるからでしょう(靄がかかるということでしょう)ではどうすれば得をするかと言うと、日没の30分前に登頂し、1時間ほど滞在して、込み合う前に下山することです。ロープウエイは込み合うのでバスを利用するのがベストかもしれませんが、押し競饅頭のロープウエイからの夜景も乙であります。ロープウエイは上りが5分、下りが3分程に感じましたが、待ち時間は昇降それぞれ30〜40分でした。超混雑日は90分待ちだそうです。ゴンドラは125人乗りで入替を含め5分で登頂・下山ができます。あの世へ行く前にもう一度”鑑賞”してみたい自然と人工の混合芸術です。7月8日。

●旅のもうひとつの、否、旅以上の楽しみはやっぱり夜の街です。そうです、居酒屋放浪です。函館山から文字通りの世界一の夜景を見たら・・・・・・もうその後はビールしかないでしょう。場所は2カ所に絞っていましたが、時間的に1軒しか無理でした。ロープウエイの待ち時間が予定外でした。空港について昼食をとった鮨店の「木はら」さんの板前さんから教えてもらった居酒屋「炭小屋」です。函館市本町にあり、市電「五稜郭公園前」電停下車、徒歩3分のところでした。キンキの煮付と真鱈の煮付を食しました。とくに真鱈の身の厚さは初の体験でした。珍しく日本酒をグイッとやってしまいました。すぐにラストオーダーの時間が来ましたが、とても満足な居酒屋さんでした。終電も去り、タクシーでのホテル帰りとなりました。今回はどうも処々巡りがメインのようでした。次回は北海美味巡りを主体としなくちゃですね。7月8日。()




固定リンク | 2017年07月03日【13】

壺中の別天地-その1・金沢篇-

 先月下旬、2度目の金沢へ。1度目は学生時代のことでかれこれ35年前です。帯広畜産大学で獣医学会が開催され、その発表のため宮崎から北海道まで国道をひたすら走った時のことです。1泊は確か米原で車中泊し(丸一日で千キロ弱を走行)、2日目は車で夕刻、金沢に着き、兼六園だけは見ておこうかと立ち寄ったのですが、適当な駐車場を見つけられずにそのままビジネスホテルをチェックインし、その後は居酒屋直行の泥酔でした。翌日は一路、北海道の帯広を目指して東北を北上しました。

 その時の後悔から、今回の旅の第一義は兼六園の観光でした。もちろん花よりは団子が最優先の旅ですから、昼食は近江町市場の鮨店、夜は片町・木倉町へ出動し、居酒屋を物色しました。

 われわれ九州人には、石川県と言っても頭にはその地図がすんなりはいってきません。やはり加賀100万石・前田家が一番です。

 わたしが立ち寄った居酒屋「大関」の女将さんに訊いたところ、加賀藩の守備範囲(領地)は西が大聖寺(現・加賀市の中心街)、東が高岡、北は能登半島全体ということでした。加賀市のことを「大聖寺」と言っていたのが印象的でした。帰って地図を復習すると、確かに括弧で大聖寺との記入があります。(滋賀の近江は飛び地)。※加賀藩は加賀、能登、越中の大半を占め、利家の妻である”まつ”・芳春院の死後に化粧料だった飛び地の近江弘川村(現・滋賀県高島市今津町)が領地。

 羽田乗継の飛行機で小松へ・・・それからリムジンで金沢駅へ・・・腹が減ったので近江町市場へ。少し散策して無調査の鮨店「歴々」へ。のどぐろ炙りに白梅貝、コハダなどの握りに、加賀太胡瓜の浅漬けなんぞも頂きました。年若の愛想の良い大将に「この舎利は赤酢ですね? 新橋に赤酢で有名な”しみづ”という江戸前がありますよね」と訊くと、「”しみづ”さんには2度(偵察)行きました」との応えでした。江戸の本格派とは距離がありますが、なかなか気の利いた店でした。(近江町市場の海産物などは私眼には”並”でした。近江町市場まで乗ったタクシーの運転手さんが、「東京からのお客さんは駅から市場まで歩くし、市場でも買い物をしない」とぼやいていましたが、それもそのはず東京のひとはここで買わなくても築地があるでしょう・・・・・・と感じました)。

 その歴々さんで教えてもらった居酒屋が今回訪問した「大関」です。(6月14日)。

 前田利家と言えばこの逸話が好きですね。司馬遼太郎の小説にも書かれていますが、今回はWikipedia を引用します。「危篤の際には自ら経帷子を縫い、利家に着せようとするまつ(芳春院)が『あなたは若い頃より度々の戦に出、多くの人を殺めてきました。後生が恐ろしいものです。どうぞこの経帷子をお召しになってください』と言うと利家は、『わしはこれまで幾多の戦に出て、敵を殺してきたが、理由なく人を殺したり、苦しめたことは無い。だから地獄に落ちるはずが無い。もし地獄へ参ったら先に行った者どもと、閻魔・牛頭馬頭どもを相手にひと戦してくれよう。その経帷子はお前が後から被って来い』と言って着るのを拒んだといい(古心堂叢書利家公夜話首書)、一説には死の床でのあまりの苦痛に腹を立て割腹自殺をしたともいう。」(Wikipedia)。完全に死期を悟ってか、病の苦痛からか、利家は新藤五国光の脇差を抱いて絶命した・・・・・・という逸話もあります。経帷子の話は死の2日前(1599年閏3月1日)の譚です。金沢城址は宿泊したホテルの目の前にあり徒歩で向いましたが、城内に入るや否や、まずその広大さに圧倒され利家の豪胆さを想い起こしました。

 その「大関」の女将さんが金沢城についても話してくれました。火事の多かった城だと・・・・・・。

 江戸時代の金沢は火災が多く、金沢城も数多くの火事に見舞われたそうです。1602年(慶長7年)、1631年(寛永8年)、1759年(宝暦8年)、1808年(文化5年)の4大火事を含む56件の火災の記録があるそうです。利家入城の3年後に建造された天守閣もなんと20年足らずで落雷のため焼失しまったのであります。そして現在まで天守閣の存在しない城なのです。(6月16日)


つづく。

固定リンク | 2017年06月16日【11】

わたしの「壺中の別天地」

 「壺中の天地」とは何ぞや。実はわたしも数年前まで知りませんでした。お恥ずかしいことです。知るきっかけはいつもの銀座八丁目の「小笹寿し」の暖簾書がこの文字でした。卒寿を超えた、元大蔵事務次官の方の書と教えてもらいました。その後、その方と2回ほど「小笹」で会いましたが、会釈を交わした程度の顔見知りでもなんでもありません。いかにも文人行政家然とした几帳面さ漂う翁でした。卒寿ともなると「壺中の天地」の領域に至っているのでしょうか・・・・・・握りのまえに肴で酒をちょびちょびやりながら、その途中で小さく丸い舎利だけを注文して食しているのが印象的な老紳士でした。

 「壺中の天」もしくは「壺中の天地」は三省堂・大辞林によれば「後漢の費長房が、市中で薬を売る老翁が売り終わると、店頭に懸けた壺中に入るのを楼上から見た。長房は老人に頼んで壺中に入ったところ、宮殿楼閣をなし、山海の珍味が満ちていたという『後漢書費長房伝』の故事から」とあり、簡単には「俗界と切り離された別天地。また、酒を飲んで俗世間を忘れる楽しみ。別世界。仙境。壺中の天。一壺天。」であります。

 このコーナーの「壺中の別天地」は「壺中の天地」よりもさらなるユートピアの意味で「別天地」としました。わたしも還暦が今にも迫っています。かねてより鬼籍に入る前に日本国中を見聞したいと願望していましたので、このコーナーをその行脚紀行の軌跡にしたいと考えました。乞うご期待下さい。

 




固定リンク | 2017年05月23日【10】

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