今日の親仁(オヤジ)ギャグ

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今週の親仁ギャグ・2018年9月30日(日)〜10月6日(土)

●「昭和三十八年、来日したヒューム英国外務大臣は政府主催の歓迎パーティ席上、こう語ったことがある。『わがスコットランドに四十年前、頭のよい日本青年がやってきて、一本の万年筆とノートで、英国のドル箱であるウイスキー造りの秘密を盗んでいった・・・・・・』」・・・・・・と「ヒゲのウイスキー誕生す」(川又一英著・新潮文庫・p320・2014年7月1日発行)にある。竹鶴政孝は1894年、広島県竹原市に生まれ、1979年に東京都文京区にて85歳で没した。竹鶴が日本(神戸港)を発ったのは1918年(大正7)6月29日。横浜、ホノルルに寄港して最初に着いたのはサンフランシスコ。その後アメリカ大陸を横断しニューヨークへ。そして再び乗船しリヴァプール港に着いたのが日本を出発して丸5カ月。1920年(大正9)8月1日、リタと結婚。帰国したのは1920年11月。帰国時もシアトルを経由しての船旅であったから竹鶴の正味の留学期間は1年と7〜8カ月と推定される。そのわずかの間に「竹鶴ノート」を完成させ、スコッチ製造のノウハウのすべてを盗んだのである。凄いの一言だ。今日も「竹鶴」と」「岩井」を馳走になった。感謝しきりだ。10月6日。

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今週の親仁ギャグ・2018年9月23日(日)〜9月29日(土)

●遅れ馳せ乍ら、今月の旅は北海道でした。それも大地震に遭遇した貴重な経験でした。そもそも今回は台風21号の北海道接近情報から旅行の取りやめも考えていたのですが。東京で途中降機して鮨でも喰らおうかと思案していたのです。それでも初日の9月4日の海の漁はまだ行われる筈だから、小樽では美味い魚介にありつけるであろうと出立したのであります。宮崎一便の羽田乗換で新千歳へ。そのまま電車で小樽へ。遅い昼食は寿司通り。そのまま海側へ下りて小樽運河。夕食は花園の炉端焼。翌9月5日はレンタカーを借り余市竹鶴政孝ニッカ蒸留所へ。その後、積丹半島を目指すも中途で引き返し、昼は回転すし。そして「小樽の女(ひと)よ」の塩谷の浜辺。小樽に戻って小林多喜二デスマスクを観、目と鼻の先の似鳥美術館へ。レンタカーを返して小樽駅から札幌へ。夕食はジンギスカン。そして翌9月6日の午前3時8分の地震遭遇。その日は終日、ほぼホテルで余震と帰路を心配思案して過ごし、10階の部屋から地上に下りたのは2回のみ。1回は地上の混乱ぶりを、2回目は電車の運行情報を得るために札幌駅へ。昇降はむろん自身の足。地震当日の9月6日はホテルの好意で延泊させてもらい、その日はどうしたら宮崎へ帰れるかの模索しっぱなし。9月7日未明、札幌市内に丘珠空港なる小さな空港があることを知り、函館空港までのチケットをゲット。函館から羽田も運よく手に入り、乗り継ぎで宮崎へ着いたのが9月7日の夕刻でした。2泊3日の予定が3泊4日でしたが、余生に生かせる稀有で貴重な経験でした。つづく。9月27日。


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今週の親仁ギャグ・2018年9月16日(日)〜9月22日(土)

●水軍の首領は、簡単に言うならば、浦方の守護か豪族であろうか。戦国の世のように領地や勢力争いが激化すると、どうしても陸方には勝てず、それらの武将に従属するしか術がなかったのであろう。九鬼水軍は信長の、村上水軍は毛利の・・・・・・といったようにだ。「江戸時代には、幕府や海辺に領地をもった大名は船手組、船手方、船手衆などと呼ばれる水軍をもち、幕府では向井氏、長州藩では能島氏、尾張藩では千賀氏のようにかつての海賊衆の末裔たちが世襲して維持したが、戦争の絶えて久しい平和な時代にあっては領内の海上交通を管理したり、領内巡察や参勤交代などで大名が船旅するときに船を出したりする程度の役割でしかなかった。幕末に至って欧米諸国を範に幕府や雄藩は近代的な艦隊の創設に向かうが、そのときにはすでに海軍という用語が用いられ、水軍の名は過去のものとなる。しかしながら、幕末の海軍創成期には、水夫達のかなりの人員が水軍の伝統ある地方の出身であった。」(Wikipedia引用)。今回の瀬戸内横断夜間旅行は水軍が活・暗躍した時代に比し島嶼の地形は少しも変っていない筈なのに残念ながら夜間航海ゆえに当時の風景を連想することすら不可能でした。思考を変えて再チャレンジであります。9月17日。

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