今日の親仁(オヤジ)ギャグ

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今週の親仁ギャグ・2019年10月6日(日)〜10月12日(土)

●「今週の親仁ギャグ」は旅やら多忙やら呑み過ぎやら怠慢やらで休みました。

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今週の親仁ギャグ・2019年9月29日(日)〜10月5日(土)

●「長岡人の矛盾」・・・・・・
河合継之助の終焉の地、福島県只見には1966年に「河合継之助記念館」(1972年から一般公開)が開館するも、長岡の記念館はそれよりも40年後の2006年と遅れること甚だしい。これは長岡の街を灰燼と化させた継之助への恨みの反映という。長岡には、今でも、継之助派と反継之助派が拮抗しているとか。しかし館長が反継之助派であったり、口では反継之助だが他人に継之助をなじられると、「おまえになにがわかる」と激怒する長岡人も少なくないという。
・・・・・・
継之助終焉の医者矢沢家は、「河合継之助・終焉の間」として記念館に移築保存されている。これは、後年のダム建設で水没するところを、矢沢家の子孫が近くの山に移転させたため、今にある。

 わたしも会津若松や長岡を訪問した際に只見の地まで足を延ばそうと調べたが、「六十里越」は車で抜けられるが、「八十里越」は山に不慣れな我々素人では、今でも困難なようだ。長岡の記念館の学芸員もそう言っていた。つづく。10月3日。

河合継之助の最期・・・・・・司馬遼太郎「峠」より
<「いますぐ、棺の支度をせよ。焼くための薪を積みあげよ」と命じた。
松蔵はおどろき、泣きながら希みをお持ちくだされとわめいたが、継之助はいつものこの男にもどり、するどく一喝した。
「主命である。おれがここで見ている」
松蔵はやむなくこの矢沢家の庭さきを借り、継之助の監視のもとに棺をつくらざるをえなくなった。
松蔵は作業する足もとで、明りのための火を燃やしている。薪にしめりをふくんでいるのか、闇に重い煙がしらじらとあがり、流れず、風はなかった。
「松蔵、火を熾(さか)んにせよ」と、継之助は一度だけ、声をもらした。そのあと目を据え、やがて自分を焼くであろう闇の中の火を見つめつづけた。
夜半、風がおこった。
八月十六日午後八時、死去。
>
自分の生死を客体化できた人物」(「司馬遼太郎の幕末維新供週刊朝日編集部・朝日文庫・pp123〜141」)・・・・・・ということに尽きるだろうか。つづく。10月3日。

河合継之助の最期・・・・・・
1868年5月2日:小地谷談判決裂で開戦。
5月11日:占領されていた榎峠や朝日山を奪還するも、その1週間後に長岡城を奪われる。「峠」では、この時、「枡屋ぼ嬢や」が登場し、<「河合さま。勝つ勝つとおっしゃってこのありさまは何事でございます」>と暴言を吐かれる。
7月25日:長岡城の奪還に成功。指揮官の西園寺公望と参謀の山形有朋らは命からがら逃走。しかし継之助はこの戦いで左足に被弾した。継之助負傷の痛手は大きく、4日後、長岡城は再び落城した。
8月1日:いわゆる「八十里越」の大敗走が始まる(兵だけでなく女子供多数)。
8月5日:会津領只見村に到着。会津若松城に籠城していた松本良順の診療を受けるが、既に手の施しようがなかった。
8月12日:会津藩領塩沢村の医者矢沢氏の屋敷を宿所とした。ここが最期の場所となった。ここに幕僚の花輪求馬(もとめ)を枕頭によび、遺言を残した。
8月16日:42歳の生涯を閉じる。死因は破傷風という。辞世の句は「八十里こしぬけ武士の越す峠」。
(参考:「司馬遼太郎の幕末維新供週刊朝日編集部・朝日文庫・pp123〜141」・「峠(下)・司馬遼太郎・新潮文庫」)
つづく。10月2日。


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今週の親仁ギャグ・2019年9月22日(日)〜9月28日(土)

河合継之助の譚山本五十六は長岡藩士・高野貞吉の六男として生まれた。父親が56歳の子供なので五十六と名付けられたのは有名な譚。母親も45歳の高齢であった。山本は戊辰戦争で戦死した次席家老の山本帯刀の家を継いだことによるが、これは長岡藩牧野家15代の牧野忠篤の口添えがあったから・・・・・・1915年(大正4年・改姓届け出は翌1916年)のことだ。山本帯刀の上司は、一代で家老職まで登り詰めた河合継之助である。河合継之助、山本五十六の座右の銘「常在戦場」は、長岡藩牧野家の家風による。牧野氏は、長岡藩初代藩主となる牧野忠成は、三河牛久保が所領であり、徳川十七将に数えられた武将。1618年のことで、当然ながら牧野家は徳川幕府の譜代である。戦国の世、牛久保の牧野家は、徳川家の前の主は今川氏であり、西の徳川・織田氏、北方の武田氏と対峙していたので、いつ何時四方から攻め入られるか分からなかったので、「常在戦場」で領地を保守していたのである。つづく。9月23日。

●忘却の年になっると、「どこに書いてあったか」・・・・・・探し当てられないのには腹立たしいかぎりで、捜索欲は時に数日あるいは数週を跨(また)ぐ・・・・・・ことが多くなってきました。先週の「竜馬がゆく」の「蘭学塾」の譚。偶然というものは確かにあるものです・・・・・・枕元に「竜馬がゆく」の1〜3巻を常在させておいて、例の件を捜索するのですが、(さだまさしの「雨やどり」ではありませんが)ぱらっと捲ったら偶然にも一発でその文章を発見したのであります。興味がある方は、「竜馬がゆく」の二巻(文春文庫・第27刷)の181〜185ページをご覧あれ。先生は医者で、塾生は医者志望が多いのですが、この医者が実在していたかどうかは知る由もありません(司馬さんは1996年没・どこかでその真否を残してくれているかもしれませんが)。フィクションの小説では、この医者の講義は医学に限らなかったいうことで、竜馬が饅頭屋(のちの近藤長次郎・亀山社中の規則を破り切腹)に連れて行かれた時は「オランダの生体論」についての書物を翻訳していたそうです。その塾でのその時の竜馬の身分は聴講生となっております。ここだけの譚ですが、日本人として生を受けたからには、性を問わず、司馬さんの「竜馬がゆく」を是非読んでこの世を終えましょう・・・・・・もったいないですぞ。つづく。9月22日。


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