今日の親仁(オヤジ)ギャグ

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今週の親仁ギャグ・2018年10月21日(日)〜10月27日(土)

●仰々しい隊列で日光を目指した家康の棺。中が空っぽということはなかっただろうが、少なくとも遺骸はなかった・・・・・・との説が有力であるそうな。家康は別として秀忠はじめ歴代の徳川将軍の遺骸は菩提寺である芝の増上寺に埋葬された。12代将軍の家慶(1793〜1853・在位は1837〜1853)の墓を掘り起こしたら、まだ生身の人間に近い姿だったという。そう、腐敗防止が施してあったというのだ。使用されたのは高価な朱肉で、それも数十キロも。朱肉の成分である硫化水銀がその役目を果たすそうな。人間の遺骸が果たして丸一年でどの程度腐敗が進行するのか。土壌の環境にもよろうが完全には白骨化していないであろう、それも江戸幕府を開府した家康の遺骸を分離してまで改葬することはないであろう・・・・・・と言うのである。言わずもがな改葬は「いったん葬った遺骸を、改めて他所に葬りかえること」(広辞苑)であり、分霊は「ある神社の祭神の霊を分けて他の神社にまつること。また、その神霊」()であり、勧請は「/席の来臨を請うこと。⊃席の分霊を請じ迎えてまつること」()であります。東照大権現として神(神格化)となった家康は遺言通り分霊されて日光勧請されたということです。つづく。10月27日。

●ここで登場するのが家康の遺言。「臨終候はば御躰をば久能へ納。御葬禮をば畩綮にて申付。御位牌をば三川之大樹寺に立。一周忌も過候て以後。日光山に小き堂をたて。勧請し候へ。」(『本光国師日記』による)である。家康が駿府城で死を遂げたが1616年。大坂夏の陣の翌年である。遺骸は久能山(東照宮)に葬られ、葬儀は増上寺(東京芝)で行われ「安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士(院殿号)(蓮社号)(誉号)(戒名)(位号)」という浄土宗の戒名がつけられ、位牌は大樹寺に立てられ、一年後に日光東照社分霊されたのである。そこで問題なのが久能山に蹲踞の姿勢で埋葬された遺骸を、丁度一年後に掘り起こし、場合によっては腐敗が進行中の遺骸を分断して、大名行列を組んで日光まで運び改葬したのか・・・・・・という大問題があった。つづく。10月27日。

高杉晋作は萩で生まれ、下関桜山にて肺結核で病死し、下関郊外の吉田の東行庵に埋葬された。その師である吉田松陰は萩で生まれ、江戸で斬首され、直後に豊国山回向院に埋葬され、1863年に世田谷区若林の今の松陰神社(1882年=明治15年創建)に改葬された。ついでながら坂本龍馬は高知城下で生まれ、京の近江屋で京都見回り組に暗殺され、京都霊山護国神社(きょうとりょうぜんごこくじんじゃ)に埋葬された。上記の場所で私が訪問していないのは東京の回向院と松陰神社(萩の松陰神社には行きました)です。そこでそこで今回の旅のメインテーマである日光東照宮徳川家康の墓があるが、それはいったいいかなるものなのか・・・・・・探求してみましょうか。つづく。10月26日。

●今月の旅は日光と東京でした。宮崎空港→羽田空港→(京急)→浅草駅→(東武伊勢崎線)→下今市駅→(東武日光線に乗換)→(東武)日光駅→(レンタカー借)→第二いろは坂(上り)→明知平華厳の滝第一いろは坂(下り)→鬼怒川温泉泊(1日目終了)→日光東照宮→第二いろは坂→中禅寺湖→第一いろは坂→東武日光駅(レンタカー返却)→浅草駅→(2日目)東京散策→羽田空港→宮崎空港・・・・・・の旅程でした。なんといろは坂を二往復した稀有な旅でした。つづく。10月22日。


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今週の親仁ギャグ・2018年10月14日(日)〜10月20日(土)

Wikipediaを拝借すると、「北海道札幌市東区丘珠町の陸上自衛隊丘珠駐屯地の飛行場であり、共用する民間施設や通称は丘珠空港と呼ばれる。」・「札幌飛行場は、陸上自衛隊の専用飛行場(軍用飛行場)であったが、1961年に公共用飛行場として指定と民間機の乗り入れが開始され、空港施設の名称から「丘珠空港」と通称されている。設置管理者は防衛省となっており、陸上自衛隊丘珠駐屯地との共用飛行場となっている。 札幌市中心部より直線距離6 kmと至近にあるが、最寄り駅は札幌市営地下鉄東豊線栄町駅で栄町駅からは車で5分程度かかる。 札幌駅からは車で約20分〜約25分を要する(新千歳は電車で36分)」とあります。私は7日朝、信号機が作動していないことや液状化などのため、渋滞や迂回を想定して早めにチェックアウトをしました。丘珠空港は予想に反して人の混雑はひどくありませんでした。そして予約の取れた便より一便前のキャンセルがなんと10席もあったのです。一人の人間がダブル、あるいはトリプル、否それ以上の重複予約をしていたのに違いありません。これ幸いとそのキャンセル待ちの便に乗り、函館へ向いて札幌を脱出したのです。函館・東京は満席でしたが早めの便に乗ることができました。そして丁度一日遅れで帰宮したのです。

●ブラックアウトが一部解決したのは地震翌日の午後でした。地震当夜になっても、しかも札幌市内にいても電力と鉄道の再開の見通しは分かりませんでした。(路頭に迷い言葉が分からない外国人観光客は相当に困った筈です)。はじめは「明日中には電力再開」との北電の会見でしたので、もしかしたら7日の未明にでも電気が使えるのではないかと、淡い期待を抱いていたのです。6日午後9時に電車の再開情報を求め、10階から非常階段を下りて札幌駅まで歩きました。さすがに改札の前に通告文が設置され、「明日(7日)午後開通の見込み」と書かれていました。新千歳空港の予約は7日の一便に変更していたのでお流れとなりました。さあ大変ということで、新たに予約を取り直す羽目になったのであります。当然ながら新千歳発の近々数日の予約は満席です。2〜3時間ネットと睨みあいながらどうしたものかと思案していると、札幌市内に「丘珠空港」なる飛行場があるのを発見したのです。そして幸いにも7日午前の予約が取得できたのです。つづく。10月20日。


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今週の親仁ギャグ・2018年10月7日(日)〜10月13日(土)

●1929年(昭和4)、小林多喜二が文芸誌「戦旗」に発表した「蟹工船」。プロレタリア文学の代表作であり、国際的にも高く評価されている。1953年と2009年の2回、映画化も。プロレタリアとは「資本主義社会で、生産手段をもたず、自分の労働力を資本家に売って生活する賃金労働者。またはその階級。無産者。」(スーパー大辞林)である。「蟹工船とは、戦前にオホーツク海のカムチャツカ半島沖海域で行われた北洋漁業で使用される、漁獲物の加工設備を備えた大型船である。搭載した小型船でたらば蟹を漁獲し、ただちに母船で蟹を缶詰に加工する。その母船の一隻である「博光丸」が本作の舞台である。」(Wikipedia)。作品は「新聞紙法に抵触したかどで発売頒布禁止処分。1930年7月、小林は『蟹工船』で不敬罪の追起訴となる。作中、献上品のカニ缶詰めに対する「石ころでも入れておけ! かまうもんか!」という記述が対象であった。」()。「この小説には特定の主人公がおらず、蟹工船にて酷使される貧しい労働者達が群像として描かれている点が特徴的である。蟹工船「博光丸」のモデルになった船は実際に北洋工船蟹漁に従事していた博愛丸(元病院船)である。 」()。国策に反した資本主義社会への批判であった。最期は、「1933年2月20日、多喜二は共産青年同盟中央委員会に潜入していた特高警察のスパイ三船留吉からの提案により、赤坂の連絡場所で三船と落ち合う予定で、共産青年同盟の詩人今村恒夫とともに訪れた。その待ち合わせ場所には、三船からの連絡により張り込んでいた特高警察が待機していた。多喜二はそこから逃走を図ったが、逮捕された。同日築地警察署内においての取調べについては、今村から話を聞いた江口渙が戦後発表した「作家小林多喜二の死」という文章を手塚英孝が『小林多喜二』で紹介している。それによると、警視庁特高係長中川成夫(警部。のちに滝野川区長、東映取締役)の指揮の下に多喜二を寒中丸裸にして、まず須田と山口が握り太のステッキで打ってかかったとある。その後、警察署から築地署裏の前田病院に搬送され、19時45分に多喜二の死亡が確認・記録された。 」()。多喜二は拷問で撲殺されたのであり、死亡写真を見る限り、外傷性出血性ショックでしょう。その時のデスマスクが小樽市の「小樽文学館」にあるのです。10月12日。

●「逢いたい気持ちがままならぬ 北国の町はつめたく遠い 粉雪まいちる小樽の駅に・・・・・」で始まる「小樽の女よ」。上野駅を模したとされるその小樽駅。それ以外にも小樽には観光資源が多くある。小樽運河寿司通り花園に、そして「蟹工船」の小林多喜二デスマスクのある「小樽文学館」(同じ建物内の「市立小樽美術館」には中村善策の洋画もあり)・・・・・・そしてそして「お値段以上」の「似鳥美術館」もあります。平日なのに観光客は多数。10月9日。


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