今日の親仁(オヤジ)ギャグ

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今週の親仁ギャグ・2019年1月13日(日)〜1月19日(土)

●今週の親仁ギャグも多忙やら(仕事ですぞ)呑ん方やらでサボってしまいました。悪しからず。

固定リンク | 2019年01月13日【593】

今週の親仁ギャグ・2019年1月6日(日)〜1月12日(土)

●明治政府は、朝鮮李王朝に対して、維新政府は鎖国時代の幕政を廃止し、天皇親政の国に復したこと、これによって従来通りの交流を願う・・・・・・との旨の国書を送付したが、何度にもわたってこの国書は突っ返された。この朝鮮の非礼とも思える扱いは、当時の李王朝が極端に日本嫌いであったこと、かつ西欧嫌いの攘夷主義者であったこと、フランス、アメリカと戦い、両国がいい加減な撤兵をしたのにもかかわらず、これらを負かしたと思い込んでいた・・・・・・などの理由によるとされている。これらから当時の李王朝は、「洋夷恐るるに足らず」、「日本は欧米の妖気に迷い、ひたすらにこれにならおうとしている由。禽獣を学ぶものは即ち禽獣じゃ。交際などしてなろうか。干戈に訴えるというのなら、それもよかろう。いつでも相手になるぞ」としていた。そこでにわかに再燃したのが吉田松陰や水戸学派らが唱えていた「征韓論」であった。西郷さんの遣韓論はどうだったか。「兵はいきません。大使たるものは、烏帽子直垂で、礼を厚うし、威儀を正して行くべきでごわす」・・・「そう(殺される)なれば幸いでごわす。朝鮮の民は自国の政府の悪を知り、日本の民は朝鮮政府の暴悪を知ります。万国皆知ります。そこで罪を鳴らして討てばよかのです。名正しく、言順なる戦さというものでごわす」・・・西郷さんは兵を率いず、無腰で行こうとしたのです。朝鮮を武力で征服しようなんて考えていなかったのです。「西郷征韓論」は、留守参議(岩倉具視、大久保利通、木戸孝允らは米欧使節団で外遊)のなかで西郷さんと一番の仲良しだった板垣退助が、西郷さん亡き後に流布し、「征韓論」の首魁は西郷さんであるとの、誤った歴史認識が創造されたのです。:下線は、海音寺潮五郎著「西郷と大久保」(新潮文庫)の「征韓論」の章(pp580〜609)より

●「西郷どん」は最後の2話だけを視聴した。西南戦争の宮崎での敗走場面がどこまで映像化されているのかに興味を持ったため。西郷隆盛征韓論に敗れて薩摩に西下し、そして西南戦争が起こった。武力で朝鮮を征服するようなことを西郷さんは本当に考えていたのだろうか。これは西郷さんに関する小説を読んでいく中でいつも疑問に思うことであった。征韓論とはなんぞや。例のようにWikipediaを拝借すると、「日本では江戸時代後期に、国学や水戸学の一部や吉田松陰らの立場から、古代日本が朝鮮半島に支配権を持っていたと『古事記』・『日本書紀』に記述されていると唱えられており、こうしたことを論拠として朝鮮進出を唱え、尊王攘夷運動の政治的主張にも取り入れられた。」とある。一部でテロリストなんて揶揄される吉田松陰先生の征韓論は、それは武力をもってであり、その朝鮮征服論には西欧の脅威、とくにロシアによる日本本土侵攻の危惧があった。西郷さんも同様にロシアの脅威を第一に考えており、それには朝鮮半島(李王朝)との協調・協力が必須であるとした。2006年、鹿児島県議会は、教科書で西郷さんが「征韓論」を唱えたとの記述に対して、征韓論でなく遣韓論と書き改めるよう要望し、一部の出版社はそれに応じた。征韓論遣韓論とは如何様な差異があるのか。そして西郷さんと大久保利通との仲たがいの真相はどのようなものであったのか。つづく。1月10日。


固定リンク | 2019年01月06日【591】

今週の親仁ギャグ・2018年12月30日(日)〜2019年1月5日(土)

●明けても暮れても・・・・・・ではなく、暮れも明けても「忠臣蔵」のテレビ。同時に2局が放映していることも。3日は高倉健主演の「四十七人の刺客」(監市川崑監督・池宮彰一郎原作・1994年公開)が放送されていた。ところで「忠臣蔵」と言えば、明けてよりは暮れが定番だが、実際の討入日は1月30日である。「元禄15年12月14日…云々」は明治維新前の旧暦(太陰太陽暦)での日付であり、新暦(太陽暦)では1703年1月30日となる。健さん主演の「四十七人の刺客」も歴然とした「忠臣蔵」であるが、これは小説が元である。ではそもそもの忠臣蔵とはどういうものか。Wikipediaを拝借すると、
この赤穂事件がはじめて舞台に取り上げられたのは、討ち入り決行の翌年である元禄16年の正月、江戸山村座の『傾城阿佐間曽我』(けいせいあさまそが)の五番目(大詰)である。曾我兄弟の仇討ちという建前で赤穂浪士の討入りの趣向を見せた。以降、浄瑠璃・歌舞伎の人気題材となり、討入りから4年後の宝永3年(1706年)には、この事件に題材をとった近松門左衛門作の人形浄瑠璃『碁盤太平記』が竹本座で上演されている。そしてその集大成が寛延元年(1748年)8月に上演された二代目竹田出雲・三好松洛・並木千柳合作の人形浄瑠璃仮名手本忠臣蔵』である。初演のときには「古今の大入り」、すなわち類を見ないといわれるほどの大入りとなり、同じ年に歌舞伎の演目としても取り入れられている。」。忠臣蔵の白眉である「仮名手本忠臣蔵」の上演は、討ち入り日から47年後のことだそうな。:「山村座(やまむらざ)」は、かつて存在した歌舞伎の劇場である。 1642年(寛永19年)に江戸・木挽町四丁目(現在の東京都中央区銀座6丁目)に開かれ、河原崎座・森田座(のちの守田座)とともに「木挽町三座」と呼ばれ、元禄年間に官許を受けた劇場として、中村座、市村座、森田座とともに「江戸四座」と呼ばれたつづく。1月5日。

●私のアルコールの強さは中戸の上か上戸の下でしょう、多分。歌は遺伝子のお陰で味噌も腐るような音痴です・・・・・・が、歌を聴くのは好きであります。ジャンルは昭和演歌に歌謡曲、フォークソングであります。とくに年末になると聴きたくなるのが三波春夫の「俵星玄蕃」であります。俵星玄蕃は架空の人物で、「忠臣蔵」討ち入りの四十七士のひとり、杉野十平次(行年28歳)に槍を教えた人物です。歌中の台詞(浪曲語り)は魅力満点ですので・・・・・・どうぞ。

時に元禄十五年十二月十四日、江戸の夜風をふるわせて、響くは山鹿流儀の陣太鼓、しかも一打ち二打ち三流れ、思わずハッと立ち上がり、耳を澄ませて太鼓を数え”おう、正しく赤穂浪士の討ち入りじゃ”助太刀するは此の時ぞ、もしやその中にひるま別れたあのそば屋が居りあわせぬか、名前はなんと今一度、逢うて別れが告げたいものと、けいこ襦袢に身を固めて、段小倉の袴、股立ち高く取り上げし、白綾たたんで後ろ鉢巻眼のつる如く、なげしにかかるは先祖伝来、俵弾正鍛えたる九尺の手槍を右の手に、切戸を開けて一足表に出せば、天は幽暗地は凱々たる白雪を蹴立てて行手は松阪町…」「吉良の屋敷に来てみれば、今、討ち入りは真最中、総大将の内蔵之助。見つけて駆け寄る俵星が、天下無双のこの槍で、お助太刀をば致そうぞ、云われた時に大石は深き御恩はこの通り、厚く御礼を申します。されども此処は此のままに、槍を納めて御引上げ下さるならば有り難し、かかる折りも一人の浪士が雪をけたててサク、サク、サク、サク、サク、サクー、『先生』『おうッ、そば屋か』いや、いや、いや、いや、襟に書かれた名前こそ、まことは杉野の十平次殿、わしが教えたあの極意、命惜しむな名おこそ惜しめ、立派な働き祈りますぞよ、さらばさらばと右左。赤穂浪士に邪魔する奴は何人たりとも通さんぞ、橋のたもとで石突き突いて、槍の玄蕃は仁王立ち…

 その蕎麦屋が杉野十平次であります。むろん杉野十平次は実在の人物です。実は、泉岳寺訪問は2度目です。十数年前に親父の所望で一緒に行きました。12月ともなればテレビならずとも庶民の心は「忠臣蔵」です。仇討ち後は切腹と承知の上での討ち入り。立派じゃないですか、武士魂。「名こそ惜しけれ」・・・・・・これだから忠臣蔵なんですな。「俵星玄蕃」は居酒屋での有線リクエストであります。7分超の長作ですので、少し顰蹙を買いますが・・・・・・。つづく。2019年1月1日。


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