今日の親仁(オヤジ)ギャグ

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今週の親仁ギャグ・2019年10月27日(日)〜11月2日(土)

●俄な考古学書生の限界・・・・・・先ほど(2019年7月9日の午前)、国立科学博物館の「3万年前の航海 徹底再現プロジェクトチーム」が丸木舟(シーカヤック)で台湾を出港し、200キロ以上離れた沖縄の与論島へ到着したニュースがあった。(9月7日午後2時半出港し、9月9日の午前11時半に到着・杉をくりぬいた長さ7.5m、幅70cmの5人乗り)。これがいわゆる「台湾から南西諸島に渡るルート」なのだが、東アジア人の縄文人が日本に渡来したのは「朝鮮半島から対馬を経て九州北部へ渡るルート」が最初である・・・・・・ことが通説。そしてもうひとつのルート(3つ目)が「サハリンから北海道に渡った後南下するルート」。台湾からわずか200キロの与那国島までに要した時間は45時間。3万年前は樺太と北海道だけは陸続きだったから、今の日本海や東シナ海の潮流とどのくらい違いがあったのか・・・・・・俄考古学書生に知る由もないが、陸続きの北海道はもとより、朝鮮半島からの渡来は台湾ルートよりも多分に楽であったことが想像される。つづく。10月29日。

●縄文時代の代表的な遺跡のひとつは「三内丸山遺跡」である。私がそこを訪問したのが2017年9月のこと。今からちょうど2年前である。その時に書いた「壺中の別天地」の文章をどうぞ・・・・・・
三内丸山遺跡
三内丸山遺跡は青森市大字三内字丸山の地名が由来。青森空港と青森市街の間にあり、空港から車で10分と近い。遺跡の存在は江戸時代(弘前藩)から知られていたが、県営野球場の建設の際にその規模の大きさが判明。大型竪穴住居が10棟以上、約780軒の住居跡が確認された。今から遡ること5500年前から4000年前の1500年間の縄文時代の集落跡である。縄文時代は世界的には新石器時代である。土器の出現が新石器時代であり、今から約13000年前から稲作伝来の約2300年前までの、約10700年間を云う。由来は土器に縄文模様があるため。3枚目の写真は、集会所、共同作業所、冬期間の共同家屋として活用されたのではないかと想像されている「大型竪穴住居」。4枚目の写真は、大型掘立柱建物(六本柱建物)、穴の大きさと深さは2メートル、柱の間隔は4.2mであり、「縄文尺」(35cm)が使用されていた。この尺度は他の遺跡でも確認されている。その穴に残された栗の木の柱。残った柱には1mのものもある。復元の柱も栗の木ということだが、こんな巨大な樹齢の木が果たして今の日本に存在するのやら・・・いろいろと疑問も膨らみましたが・・・深堀はしません。耐久性を増すために表面を焦がしてもいるそうです。7枚目の写真は高床式掘立柱建物です。これももちろん想像の復元物ですが、柱自体がどっしりと重厚で、今風のログハウス様であります。避暑地としてこのままでも利用したい気分であります。8枚目は竪穴建物で、屋根は萱や樹皮や土などで葺いてあるようです。三内丸山遺跡の最大の特長は、稲作伝来のはるか遠い昔にこの日本で、栗を植林し、大きな集落を形成し、狩猟や漁業をしながら、1500年もの間、定住生活をしていたことです。その世界的にも発達していたコミュニティ-が突如、崩壊したらしいのですが、それは謎のようです。司馬さんはこの遺跡が発見されるや、居ても立っても執筆もできずに、この地へすっ飛んできたそうです。遺跡発見のニュース第1報は1994年7月17日の朝日夕刊。司馬さんがここに立ったのは同7月22日と云う。司馬さん他界の1年半前のことです。写真は史跡の縁(発掘途中と思われる)の栗の木とその実。

つづく。10月29日。


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今週の親仁ギャグ・2019年10月20日(日)〜10月26日(土)

●ルーツを含めた民族の形成過程にとって重要なものの一つが「言葉」である・・・・・・「日本語」である。司馬さんの「司馬史観」の御世話になるしかない・・・・・と言うか・・・・・・司馬さんの文章が何と言っても最も理解し易いのですが。そこでここでも箇条書きとしましょう。
稲作が九州北部から全国(北海道や東北の一部を除く)へ拡大していくに出来上がったのが「日本語」である。「紀元前3世紀ごろだろう」と、司馬さんは書いている(「街道をゆく38・オホーツク街道」p14他・朝日文庫)。

北部九州から東北まで稲作が広まるのに要した時間は、約400年という。その間、先住民であった縄文人は「北へ北へ」と追いやられたのであろうか。はたまた侵入者(侵略者)の弥生人と同化していったに違いない。

その日本語の「構文は朝鮮語に似、発音はポリネシア語に似、『目(め)』「魚(な)』といった単音節の多い点では、古代越人たちのことばに似ている」(同p14)。


つづく。10月25日。

●紀元前4世紀(紀元前8世紀説もあり)から始まった弥生時代。その前の縄文時代の日本の人口は如何ほどか・・・・・・下縄文前期(5200年前)が10万5千人、縄文中期(4300年前)が26万人、縄文後期(3300年前)が16万人、縄文晩期(2900年前)が後期の半減の7万6千人。そして今から約1800年前の西暦200年の人口はなんと約60万人でしかなかった。ついでに大宝律令(701年)の頃が450万人、西暦800年頃が550万人と推定されている。弥生時代には、まさに疎(まば)らにしかヒトがいなかったのである。つづく。10月25日。

●日本人とは・・・・・・複雑すぎるので端折って箇条書きで攻めてみましょう。
20万年前にアフリカで誕生した今のヒトの共通祖先である新人が東アジアに到達したのが約4〜5万年前であり、日本列島にもそのころ(4万年前)からヒトが住み始めたとされる。

その東アジア到達までの15万年間に環境の変化などによって、アフリカの新人は東アジア人と呼ばれるように進化しながら変化していった。この遺伝子(ゲノム)解析により分類されている東アジア人には、北東アジア人と東南アジア人、そして縄文人が含まれる。その縄文人が日本の先住民であり祖先である。

然るに縄文人は南方(沖縄)から北海道までの広範囲に拡散していったことになり、縄文人の遺伝子を色濃く遺しているのが沖縄を中心に住む人たちと北海道のアイヌ人である。九州や四国、本州に住む日本人には縄文人の遺伝子が少ない。

弥生人と縄文人は全く別な民族である。稲作が日本に伝来してからが弥生時代である。では稲作を伝来したのはどのような民族で何処から渡来したのであろうか。その中には、中国南部に居住していた南方系民族の越人があり、朝鮮半島からもあるが、どの民族が最初であったか不明である。

言うまでもなく遺伝子解析が重要だが、今の日本人は多民族の遺伝子が入り混じった、いわゆるミックスである。ゲノム以外にも大切な判断材料が「蒙古斑」や「蒙古襞」、「二重瞼」の「脛毛」などの身体的特徴や、それに「隼人舞」や「鵜飼」などの文化や生活様式である。


つづく。10月25日。


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今週の親仁ギャグ・2019年10月13日(日)〜10月19日(土)

●日本列島形成途中の、今から7万年前、北方からはマンモス・ヘラジカ・トナカイ・ヒグマ・ナキウサギ・キタキツネなどの獲物を追っかけて大陸の旧石器人が渡って来ました。同様に南方からも獲物(ナウマンゾウ・オオツノシカ・カモシカ・二ホンジカ・ツキノワグマ・ニホンザルなど)を追っての渡来人がありました。そして日本列島が完全に分離されたことで人々も独自の進化を遂げたのです。このことは、遺伝子学的にも証明されるようになっています。今の日本人に約35%の頻度で見られるある遺伝子は、日本列島に初めて到達した現生人類(ホモサピエンス)のタイプと考えられており、3万7千年〜3万8千年前に日本列島で誕生したとされる・・・・・・そうな。アフリカで生まれたホモサピエンスが日本に到達したのが約4万年前ということですな。ところで日本人の最古の人骨は、石垣島(石垣市)の「白保竿根田原洞穴遺跡」で見つかった旧石器時代のもので、実に2万7千年前と推定されています。本州などでの発見がないのは土壌の性質によるもので、沖縄は保存されるに適しているそうな。新人は約20万年前にアフリカで誕生したのはご存じでしょうから、日本に到着するまでに実に十数万年を要したということになりますかつづく。10月17日。

●地球の誕生が約50億年前としましょうか。(ユーラシア)大陸と日本列島が引き裂かれ始めたのが、今からほんの少し前の2300万年前(中新世)頃からで、1500万年前には日本海の窪みが形成されたそうです。その後も地殻変動は続き、2万年前にはほぼ今の日本列島の形になったそうな。そして宗谷海峡が誕生したのが今から1万3000年前から1万2000年前だそうです。では人口はどうなのでしょうか。遺跡の数から推定しているようですが、縄文早期(8100年前)の日本の総人口は、なんとも少なく僅か2万人です。以下縄文前期(5200年前)が10万5千人縄文中期(4300年前)が26万人、縄文後期(3300年前)が16万人、縄文晩期(2900年前)が後期の半減の7万6千人弥生時代(1800年前)が約60万人だったそうな。随分と人口密度の低かったことか。弥生の人口は、今の宮崎市の1.5倍ですならな。つづく。10月17日。

●そこで大問題があるのですが、それは今回の旅のテーマである「オホーツク文化」というものです。この文化は、3世紀から13世紀の長きにわたって、オホーツク沿岸を中心に北海道北海岸や樺太、南千島に展開した、海洋漁猟民族の文化です。縄文人ともアイヌ人とも異なる民族による文化なのです。このオホーツク人が遺してくれたもののひとつが「モヨロ貝塚」なのです。つづく。10月16日。

●今回の旅は、現在言われている日本人のルーツを可能な限り理解できないものか・・・・・・という仕掛けなのですが、果たしてどのくらい達成できるものやら。まず手始めに北海道の民族と文化の変遷を調べてみることにしますか。北海道は本州とは異なった文化を育んできたのですが、旧石器時代と縄文時代は大して変わらないものとしましょう。北海道で縄文時代に続くのが「続縄文時代」であり、紀元前3世紀ころから紀元後7世紀までみられます。これは本州の弥生から古墳時代に相当します。その次に現れるのが「擦文文化」であり、7世紀から13世紀まで続きます。これは飛鳥から鎌倉時代の後半に相当します。その後が13世紀からの「アイヌ文化」であり、鎌倉時代から現在に当たります。つづくこれからの文章は、只今勉強中であり、誤りが多数みられると考えられますので、鵜呑み厳禁です。10月16日。

●30回目を迎えた「今月の旅」は「オホーツク」でした。宮崎空港→(羽田空港経由)→女満別空港(レンタカー借)→(網走湖通過)→モヨロ貝塚館→能取湖・サンゴ草群生地→サロマ湖→紋別(1泊目)→(道の駅)→(浜頓別通過)→エサヌカ線→道の駅さるふつ公園(ホタテ焼カレー)→宗谷岬(間宮林蔵像・日本最北端の地)宗谷丘陵(風力発電・白い道)→稚内駅(日本最北端の線路)→ノシャップ岬→稚内(2泊目蛸しゃぶ)→宗谷岬(間宮林蔵渡樺出港の地)→宗谷丘陵→稚内空港(レンタカー返却)→(羽田空港経由)→宮崎空港・・・・・・の2泊3日の旅程でした。主目的は「モヨロ貝塚」と「間宮林蔵」でした。つづく。10月16日。


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