今日の親仁(オヤジ)ギャグ

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6月23日(火)-シンコ(新子)信仰-

 「身銭で通える銀座の鮨屋。小はだのうまさは天下一品でしょう。【銀座 新富寿し】」は池波正太郎のただ一人の弟子である佐藤隆介(1936-)氏が2年前に書いた「池波正太郎の食まんだら」(新潮社)のなかの、いちエッセイである。
 
 先週末から1泊2日で東京に行かせてもらった。若い獣医師衆に留守を任せてのことだ。行きつけの○○寿しが運悪く3日連休で、思案の挙句、正太郎先生(1923-1990)の一節を思い起した。

 「なあ、佐藤くん。東京へ帰ったら一番先に食べたいものは何だい」「そりゃ鮨ですね。ああ、たべたいなあ・・・・・」「やっぱりトロか」「いえ、私は何より小はだです」「わかった。帰ったらさっそく小はだを食いに行こうや」(池波正太郎【むかしの味】)
 
 それはバリ島から帰る機内での会話でした。その約束がすぐ実現して、お供した先が「銀座 新富寿し」です。先生にとっては戦前の株屋の小僧時代からの「行きつけの鮨屋」ですね。エッセイ「むかしの味」に新富が出てきます。(佐藤隆介【池波正太郎の食まんだら】)

 東京も、もちろん梅雨なので、土曜の夕暮れ時とはいかぬが、6時ころに「銀座 新富寿し」の暖簾をくぐらせてもらった。店内は細長い直のカウンターで、はじめちょっと「睨(にら)み合い」と思(おぼ)しき雰囲気が漂ったものの、大将の「飲み物は何でしょう」の一声で緊張は解(ほぐ)れ、いざ鎌倉で戦闘態勢は整った。先ずはビール。刺身はお任せで、鯛の昆布締め、鱸、青柳とその(バカガイ)のヒモ、好みでキスの昆布締め、煮蛸、コハダを戴き、先制攻撃は無事の任務完了か。第二次攻撃は、正太郎先生のお教えに従い、早々の握りに突入。好みで、先ずはコハダ2貫。次いで〆鯖、真(平子)鰯、北海道産ウニ、郡上(岐阜)の天然小鮎、子持ヤリ烏賊印籠づめ、河童巻、干瓢巻(テッポウ)、そして〆はコハダ2貫。その間、小生としては控えめながら、温燗2本と麦焼酎(大分・二階堂)を2本頂戴致し候。「一見」でこれ以上は不味いと思いながらも、得意の、酔いに任せての「第3派」を強行。

 現在、後出の故・神山幸治郎氏の孫である3代目が切盛りしているが、その3代目の大将にぶっつけてみた。「大正の初め、新橋にて富太郎が新橋の新と富太郎の富を取り新橋鮨として創業。後その弟が銀座5丁目あづま通りに昭和2年に出店なので、新富寿しは80年以上の歴史がある」こと、「正太郎先生はよく見えたが、鮨を大食いすることはなく、割と早めに切上げた。他にもいろいろと行くところがあった」とのこと、「佐藤氏は今もよく通われる」ことなどを、嫌顔せずに語ってくれた。

 まだ少年のように若くて、株式仲買店ではたらいていたころ、私はよく、この店へ来たものだった。先年、八十四歳で亡くなった先代のあるじ・神山幸治郎さんが四十をこえたばかりだったろう。ちょっと怖い人で、なまいきざかりの私が、くわえ楊枝か何かで出て行きかけたら、「若いうちに、そんな見っともないまねをしてはいけませんよ」と、いってくれたことがある。この人にかぎらず、さまざまな場所で、さまざまな人たちが、若い者をいろいろと教えてくれた時代なのだ。・・・・・(池波正太郎【むかしの味】)

 3代目に楊枝の話をすると、「あー、それは初代で私の祖父ですね・・・」と応えた。3代目も随分と初代に仕込まれたのだなと、察した。

 最後に「シンコ(新子)とコイカ(=コウイカ(スミイカ)の小さいもの)はもうそろそろ時季ですかねぇ」と尋ねると、「シンコは今日初めて魚河岸に出てましたが、グッピーみたいでしたね。これだと味はありません。7月に入れば味が出てきます。コイカも後れずでしょう」との応えであった。
 
 小生はコハダのない鮨屋は鮨屋でないと真剣に思っている人種の一人である。今回も「新富寿し」の天下一品コハダに巡り合わせてもらった。正太郎先生に敬服である。そして、その技の踏襲と信念の貫徹に対しても感服の至りである。魚河岸に毎日のように通い、80年もの間変わらぬ味を貫くことは、至難の至難の至難の業である。勘定は銀座の一流鮨店のほぼ半分であった。仕事の質・量を比べても、宮崎での一流、いや二流鮨店よりは格段の割安感だ。諸々の面から、小生の、鮨に飢えた胃袋と脳味噌は、文句なしの満腹であった。

(シンコは4〜5cmで1匹が3gと小さい、7〜10cmはコハダ、12〜13cmはなかずみ、15cm以上をコノシロという。「煮ても、焼いても、ましてや生では食えない」、このぉー代(?)物であるが、塩と酢で〆ると絶品に変身する。「コハダの仕事ぶりで、どんなすし屋かわかる」と、言われる鮨屋たるもの、常に挑戦し続けなけらばならない好敵手なのである。)

固定リンク | 2009年06月23日【26】

6月15日(月)-エコ・ディレンマ-

 運動する時間が無い訳ではないが、それなりの出立ちの不恰好さで「有酸素運動」するのもみっともないし、飲む時間を削ってまでウォーキングする健康オタクでもない。そこでこのたび、宮崎が生んだ実業家である山田昇氏の大手家電店「○○○電気」でウォーキングマシーンを所望してみた。
 寝ていても消費されるカロリーを「基礎代謝」という。生きてることは、絶え間なく心臓が動き、呼吸がなされる。体を恒温に保つために全身の筋肉は常時、少なからず収縮している。基礎代謝は新陳代謝の盛んな若年で高く、年を重ねるに従い減少するが、筋肉量(心筋や呼吸筋など全身の骨格筋)に比例するため、体脂肪率の低い筋肉質なマッチョでは反対に高くなる。
 好きなものを食って、好きなものを飲み、好きなことをのたまうには、消費カロリーを増やす必要がある。さもないと、「中年太り」に拍車がかかる。ダイエットを成就するには、基礎代謝を上回る運動が必要である。
 マシーンはペダルの上に両足を乗せ、好みの速度にセットし、機械に連動して人間が足踏みをするタイプのものである。表示を鵜呑みにすると、1,000歩で約35kcalのカロリーが消費される。約10分で2,000歩、70kcalのエネルギー消費である。汗がにわかに滲む程度だが、結構脚にくる。小生の基礎代謝が20kcal/体重×○○=●●kcal/日とした場合、1週間で1日分の基礎代謝に見合うエネルギーを消費するには、1日当たり約6,700歩余りを稼がないとおっつかないから、意外に過酷な数字である。
 ちなみにウォーキングの消費カロリーは、たとえば体重70kgの人が1時間歩いたとすると、0.076〜0.082(係数)×70×60=319〜344kcalである。
 ところで美味物、美酒のカロリー(熱量)は如何程か。週2回はお世話になる昼飯前時のざる蕎麦は100gで132kcal、昼の1尾105gの鰯2尾(可食部は1尾53g)で230kcal、飯は100gで約150kcal、術後の空腹時の○○カップ麺が約500kcal、渇いた咽喉を潤すショートの缶ビール(アルコール5%、350ml)は147kcal、20度焼酎・乙類1合は255kcal、純米酒(アルコール15%)1合は185kcal、赤ワイン(アルコール12%)180mlは130kcal、ウイスキー180mlは408kcalである。(アルコール1g当たりのカロリーは7kcalである)
 マシーンの歩数に換算すると、ざる蕎麦100gは3,770歩、鰯2尾が6,570歩、ショートの缶ビールは4,200歩、焼酎一合は7,290歩である。これをみても、なんともおぞましい数字である。さらに言うと、最近食った背脂入りのネギラーメンの背脂が仮に5gとすると、5×9kcal(脂肪1gの熱量)=45kcalとなり、1,290歩で収支が合うから、コッテリも禁物である。 
 話が大きくなるが、今の地球の状況ではもう4分の1の地球がないと「温暖化」を抑えきれないらしい。もちろん人間と工場、家畜の数が今と同じとしての話だ。例えば、ニュージーランドは人口の10倍以上の家畜が飼養され、彼らは二酸化炭素よりも21倍の「温室効果」のあるメタンガスを大量に排泄している。こう考えると、人口や家畜数も地球温暖化にとって敵となる。暖衣飽食し放題で、マシーンに頼って余計にCO2を排泄するような生活自体が否定される状況にならないように願いたいものだ。小生的には、ベジタリアン的なノン・アルコールの余生だけは避けたいのが、偽らざる本音であるが・・・。




  


固定リンク | 2009年06月15日【28】

6月4日(木)-巨匠たる所以-

 川端康成は「伊豆の踊子」を完成させるのに4年半を費やした。それも湯ヶ島の旅館に滞在し、その間殆ど宿賃を払わなかったと言われている。川端康成は1917年に旧制第一高等学校に入学し、翌年(1918年)の秋に伊豆へ旅行し、以後10年間、湯ヶ島湯本館へ通った。「伊豆の踊子」は1918年の旅芸人とのやりとりとされる。「伊豆の踊子」は1926年に発表されているから、実に8年の歳月を経て熟成されたノーベル作品である。長期の滞在で、温泉場と温泉旅館、それに旅芸人など、すべてを直に素肌で感じ続けたことが「伊豆の踊子」を世に出したのである。川端康成は書画にも造詣が深かったのも有名である。与謝蕪村(1716-1784)の国宝「十便十宜図」(1771年、池大雅との競作、川端康成記念会所蔵)を入手した目利きでもある。何かで読んだが、○○新聞の原稿料を前借してこの国宝を手にしたという。

 世界に認められた日本人の画家と言えば、奈良良智?、村上隆?、千住博?・・・いやいやそうではあるまい。棟方志功や岡本太郎、荻須高徳等の名が挙がるであろう。その中でも筆頭格は「藤田嗣治」である。太平洋戦争中、従軍画家のトップに君臨し、戦後「戦犯」として取り沙汰された人物だ。Fujitaはパリでピカソらとの親交が深かった。ある日、ピカソがFujitaのアパートを訪ねたとき、いつもの如く面相筆で修行中であった彼は、ピカソの声が聞こえるなりベットにもぐりこんだ、という。修行に勤(いそ)しむ姿を天才・ピカソに見られたくなかったのである。筆を持ったFujitaを見た人物は極めて限られているという。面相筆で猫を描いている「土門拳」の写真がある。(梅原龍三郎も写真を撮られることを極端に嫌ったという。アトリエでカメラを向けた土門拳に椅子を投げつけたのは有名な話だ。)
 
 西の「栖鳳」、東の「大観」とは日本画の両雄を指した言葉で、京都の竹内栖鳳と水戸生まれの横山大観のことである。小生風には西の「玉堂」、東の「大観」としたいところだ。玉堂は言わずもがなの愛知出身の川合玉堂である。玉堂は梅原龍三郎や小倉遊亀、中川一政などの巨匠と違わず、現場での「写生」を重んじた一人である。玉堂は風景画を得手とするが、画風はオリジナリティーが高く、麓で写生した絵を持ち帰り、それを山頂からみた構図に変えて本画とするところにある。

 親仁の説教じみたボヤキも聞きたくはあるまいが、若い獣医師に事あるごとに垂れる一節がある。診療は誠実・繊細・果敢でなければならないが、それにも増して、「勉強は隠れてやれ!」と言うことだ。静かなところで沈思黙考しないと、何事も身につかない。凡人が非凡人になるには、隠れて努力する道があるのである。




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