今日の親仁(オヤジ)ギャグ

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2月4日(水)-「ホッピー」に乾杯-

 夜間病院を開院して、来る5月で丸2年となる。神宮分院を始めた時は、不幸などの特別なことがない限り、1年3ヶ月は休みを取らなかった。夜間では、昨年の11月いっぱいの1年7ヶ月間、月に1〜2日の休みだけであった。新年からは、月6日は休めているから、精神的に楽で、体調もよい。休みが少ないとストレス過剰になり、「ニシタチ」に通う回数も自然と増える。特に夜間診療後の学生アルバイトとの「ホルモン屋」通いは、メタボに拍車をかけた。今年に入り「ダイエット」挑戦中である。1ヶ月で5キロ痩せたから嬉しいではないか。
 「ニシタチ通い」はそう簡単には減らせないが、晩酌は主たるビールから「ホッピー」へ転換している。そこで「ホッピー」について講釈を垂れてみよう。
 愛読書「文芸春秋」・2008年9月号の88ページ、「ホッピー六十年」と題したホッピービバレッジ社長・石渡光一氏のコラムが面白かった。明治20年頃、赤坂で大工をしていた光一氏の祖父に、連隊に納める餅菓子を作ってみないかという話が舞い込み、次男坊で商才がありそうな父・石渡秀氏を指名してやらせた。すると今度は陸軍からラムネを作れと指示され、「秀水舎」という会社を起こした。若干15歳の時だ。東京ではラムネは冬にさっぱりだが、「雪国は暖房も効いているから咽喉が渇くんだよ」と聞くや、野沢(長野県)にも会社を設立した。そこでまたもや、当時流行のはしりであった「ノンビア」を作ってはとの、声がかかった。このノンビア、実は中身がラムネと大差ない。それに工場の近くにはホップ畑が広がっていた。現在の「ホッピー」誕生の大雑把な経緯だそうだ。
 そして時が流れ、終戦の年(1945年)、銀座で進駐軍が飲み捨てたアメリカンビールの空きビンを、自作のカートで拾い集めたのが、当時四年生だった、現社長の光一氏に他ならぬ。当然ながら、きれいに洗浄されたビンには「ホッピー」が詰められた。来年は「秀水舎」創業100周年とのこと。光一氏は社長を退き、三代目女性社長が誕生する。
 「ホッピー」は吉田類が良く好む「下町の大衆アルコール飲料」である。品名は炭酸飲料(ホッピー330)、原材料:麦芽・粉飴・ぶどう糖・スターチ・ホップ・酸味料・調味料(アミノ酸等)、内容量:330ml、アルコール分:0.8%である。気になるカロリーはビールの3〜4分の1の11kcal/100mlで、プリン体ゼロである。またこれが、安いときている。1本105円であるから、「酒税」とは怖ろしい。
 「気が抜けたビール」みたいなので、最初は抵抗があるかもしれないが、ほんのりと酔いがまわるに従い、「とりこ」となる。慣れれば、さっぱり系で肴の味を邪魔することがないから、ケッコウだ。さらにケッコウなことに「ダイエット」にもなるから、ハッピー・エンドとなる。「ホッピーでケッコウ、ハッピー」。くれぐれも、割られる焼酎は25度の甲類であるからして、乙類は決して注(つ)がないように。
 「いつまでも有ると思うな親と金、無いと思うな運と災難」という大阪商人の商売訓がある。「金」が無くても「運」の尽いている時はまさにチャンスというのが、今回もホッピーから学んだ商売訓である。


固定リンク | 2009年02月04日【12】

2月3日(火)-宮本武蔵の「五輪書」を読む-

 「兵法の道、二天一流と号し、数年鍛錬の事、初而書物に顕さんと思ひ、時に寛永二十年十月上旬の比、九州肥後の地岩戸山に上り、天を拝し、観音を礼し、仏前にむかひ、生国播磨の武士新免武蔵守藤原の玄信、年つもつて六十。
 我、若年のむかしより兵法の道に心をかけ、十三歳にして初師而勝負をす。其あいて、新当流有馬喜兵衛といふ兵法者に打勝ち、十六歳にして但馬国秋山といふ強力の兵法者に打勝つ。廿一歳にして都へ上り、天下の兵法者にあひ、数度の勝負をけつすといへども、勝利を得ざるといふ事なし。其後国々所々に至り、諸流の兵法者に行合ひ、六十余度迄勝負すといへども、一度も其利をうしなはず。其程、年十三より廿八、九迄の事也。
 我、三十を越へて跡をおもひみるに、兵法至極してかつにはあらず。をのづから道の器用有りて、天理をはなれざる故か。又は他流の兵法、不足なる所にや。・・・・・」。

 これは宮本武蔵(1584?-1645年6月13日)の著で、かの有名な「五輪書」(渡辺一郎校注、岩波書店)の書き出しである。平易な文で読み易いが、要約すると 「武蔵は播磨に生まれ、小さいときから武道に励み、13歳で初めて勝負をし、16歳で強豪に打勝ち、21歳で上京して都でも打勝ち続け、その後も諸国を巡って28か29歳まで決闘をした。その間の勝負数は六十回を超えた。自身には生まれつきの武芸の才能が備わっていたのか、あるいは相手が弱かったのか・・・・・」という内容である。

 あの「直木賞」は直木三十五(1891-1934)の業績を記念し、昭和10年(1935年)に創設されたが、彼の著書に「宮本武蔵」がある。武蔵は宮本無二斎の一子で、幼名を「弁之助」といった。12歳の時、村祭りの太鼓たたきを見て、両方の手でも左右差無く剣が使えるのではないかと考え、実践・鍛錬した。これが「二刀一流」(二天一流)の由縁である。しかし、実際の「決闘」では二刀を使用することは一度もなかった。最初の決闘は13歳で、相手は有馬流の有馬喜兵衛で、城下で「試合望勝手次第可致」と札を立てていたため、それが武蔵の耳に入ったことが発端である。この時代の剣での決闘はほとんどが「真剣」勝負であったが、有馬との試合では、武蔵は「棒をすてると、無手と、喜兵衛に組ついて・・・・・、有馬を頭上へ差し上げると、力任せに、大地へ叩きつけた。」とある。

 佐々木小次郎(1612年5月13日没)こと、佐々木巌(岩)流との船島での決闘では、武蔵は「技量伯仲」とみて、事前に巌流の刀・「備前長船長光」の長さを聞いておき、それよりも長い木刀を作り、かつ時間にかなり遅れて、小次郎をイラつかせたとされる。そして「「この勝負は、わしの勝ちじゃ」と声をかけ 「何と申す」と小次郎が答えると 、「勝つ気なら、鞘は捨てぬぞ」」と心理戦を仕掛けた。

 1640年に細川(忠利)家に客分として入る。「正保二年五月十九日に、熊本城の邸で死んだ。六十二とも、六十四とも云う。鎧をつけさせて、飽田郡五丁手永弓削村へ葬った。武蔵塚として、今に残っているのが、それである。」

 スーパー映画スターで、「ドラゴンシリーズ」のブルース・リー(李小龍、1940-1973)の座右の書は「五輪書」であったと聞いたことがある。「武蔵は天才か」という素朴な疑問。野球のイチローやゴルフの石川遼・・・・・、もって生まれた素質も重要だが、幼少からの「きっかけ付け」と「鍛錬」とが大きく関与していると思われてならない。

 武蔵は1600年の関ヶ原の戦いをはじめ、大阪冬の陣(1614)・夏の陣(1615)や島原の乱(1637-1638)などにも参戦した。「五輪書」でも28歳か29歳が最後の「決闘」とあるので、1612年5月13日の小次郎との戦いが最後となるのであろうか。しかし実際の戦(いくさ)はその後も続いたことになる。多くの決闘や戦に向かった「剣豪・武蔵」のおもいはいかほどのものであったろうか。平和な現在、「100年に一度の世界不況」は「武蔵のおもい」に比べれば、「屁の河童」に違いない。まさに「一億2千万、総奮起」しなければならない。最後に、現代の若き「剣(クラブ)豪・遼」のマスターズでの活躍を祈ろう。



固定リンク | 2009年02月03日【10】

2月2日(月)-「産婆さん」の復活-

 最近の「医療崩壊」について、いろいろと講釈を垂れたいことも少なくないが、最近嬉しいテレビ報道をみた。助産師さんが復活し、活躍の場を拡げている。例えば、産婦人科病院に数名の助産師さんがいて、24時間体制でお産を介助し、妊婦が安心して分娩できるシステムである。お産前に正常な分娩が可能と思われるものの9割が、医師の特別な手を借りることなく、助産師のみでの分娩が可能という。
 医師の責任の程度は専門科によって異なる。心筋梗塞、狭心症、動脈瘤、脳梗塞、脳出血、交通事故などによる外傷、そして問題の「小児とお産医療」は緊急にして重労働である。医師の中でも「外科医」と「小児科医」、「産科医」にかかる負担は特に重い。
 獣医療でもまったく同じで、たとえば夜中の帝王切開は、スタッフが揃わないこともあるが、その後の数日間は体調(バイオリズム)が狂う。これは術中や処置中の「極度の緊張」に因る。「生きるか死ぬか」、「救えるか、否か」は「天と地」の差。患者と家族、それに医師や獣医師にとっても「天国と地獄」である。医師や獣医師も「生身の人間」である。時間外救急の切迫した状況は、昼間の通常診療にも影響を及ぼすようになる。患者も行政も、そして医師会も、医師一人ひとりが「生身の人間」であることをまず理解しなくてはならない。「医療崩壊」の原因はいろいろあろうが、解決するには情勢分析が欠かせない。「天命や使命」の遂行にも「生身の人間」であることの「壁」があるのだ。
 小生は3人兄弟で、3人とも家の縁側で生まれた。おふくろは昭和12年(1937年)生まれで、一昨年金婚式を迎えた。もう50年も前の昔話になるが、小生のお産時に子宮からの出血が止まらなかった。産婆さんは、「唐米袋(とうまいぶくろ=玄米を入れる麻袋)に庭先の畑の土を詰めてくるよう」、親父に指示し、その袋を下腹部に押し当てて止血したそうだ。産婆さんの機転がきかなかったら、お袋の命は多分になかったであろう。お産には故・曾祖母(5人の子供を出産)と故・祖母2人(どちらも7人の子供を出産)が助手として立会い、親父は2歳年上の兄貴を背負って、庭を「あっちこっち、うろちょろ」していたそうである。
 産婆さんは江戸時代からいたそうで、古くは「取り上げ婆(ばばあ)」と呼ばれ、戦前までは「産婆」、戦後は「助産婦」、そして現在の「助産師」に至っている。一時は正常分娩でも医師のいる産婦人科病院での分娩が主流であったが、ここにきてまた「助産師」が台頭し最前線で復活しているから、頼もしく、嬉しいことだ。「命」にかかわる仕事は、辛い反面、喜びも一入(ひとしお)である。半世紀前の「天使の産婆さん」、いやいや失礼、「天使の助産師」さんに感謝である。経験は知識を凌駕することを、これまたよく「経験」する。故・曽祖母と両祖母(こちらは本当の「三婆さん」かもしれないが)にも、懐旧の念をもって、感謝である。




固定リンク | 2009年02月02日【11】

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