今日の親仁(オヤジ)ギャグ

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今週の親仁ギャグ・2019年12月8日(日)〜

大友宗麟のコト・3・・・・・・宗麟は北九州6国を所領したほどの人物である。九州全土、あわよくば天下統一を目論む野心があったのかもしれないが・・・・・・それには信長や秀吉のようなカリスマ性がなかった。言い換えれば人望がなかった。そもそも島津と大友との合戦はどのような経過で発生したのであろうか。もともと両者は明や南蛮貿易の利益性から同盟的関係にあったが、天正5年(1577年)、日向の伊東義祐が島津氏に敗北し、日向を追われ大友氏に身を寄せたことに端緒がある。そして宗麟は島津を降すべく日向に出兵し、一時は耳川(高城川)まで島津を後退させたが、その後の逆襲で形勢は大いに逆転し、延岡の無鹿の陣(1578年8月〜)で指揮をとっていた宗麟も、最期にはやむなく豊後へ敗走したというもの。
好色家であった。美女を得るためにその役目の者を上方に常駐させており、臼杵の館には多くの婦人が住まわせたほどの漁色家だった。
家臣の妻をとりあげるというようなことも一度や二度ではなかった。たとえば宗麟傘下の一万田親実の場合、謀反の容疑をつくりあげて殺害して、目的を達成した。
耳川の戦では、「道悪しき所にては、仏神の尊容を取りはめ取りはめ、是を踏んで通りし」(「大友記」)とか、「宗麟はその征服した土地の神社や仏閣をこわした。そしてつねづね、自分はキリストをもって統治したい、と語った」(陣中に伴っていた7人の南蛮人宣教師がローマに送った報告書)・・・・・・などの蛮行も人望失墜の一要因であろう。
つづく。12月10日。

大友宗麟のコト・2・・・・・・日向の国は戦国の世、北は大友氏から南は島津氏に挟撃されたといってもよい。よほど伊東氏がヒトの良い殿様であったのか・・・・・・だが。宗麟とはどのような人物であったのか。
宗麟は少年のころから南蛮渡来の物品が好きであった。当時の豊後には相次いで明船や南蛮船がやって来、ディオゴ・ヴァスというポルトガル商人などは、5年間も城下に住み日本語も話せた。ヴァスが聖書を前に神に祈っているところを宗麟が目撃したと・・・・・・記録にある。
1549年に日本へキリスト教を初めて伝えたフランシスコ・ザビエル(1506〜1552)。入陸は鹿児島の坊ノ津はだったが、島津での布教で信徒になったのは僅か100人そこそこという。もとより島津は安心立命のために禅宗を、武運を開くためには密教(兵道)を好んでおり、キリスト教拡大には限界があった。そこのあって宗麟は南蛮品を嗜好しており、当然面会したであろうし、キリスト教のユートピアを(日向の国に)建設しようと目論むほどであったから、いわば意気投合したに違いない・・・・・・ことが想像される。
その中途にあって島津が日向の伊東氏に攻め入った時、宗麟はこれ幸いにほくそ笑んで援軍を送ったであろう。がしかし耳川の戦で大敗してしまう。
つづく。12月10日。

大友宗麟のコト・1・・・・大友宗麟とはどのような性質の人間だったのか・・・・・・日向の国にカトリック(イエズス会)のユートピアを築きたく・・・・・・わが日向(宮崎県)を戦の舞台に巻き込んだからにはそれなりの調査が必要だな。
宗麟(1530〜1587)は大友氏21代当主。初代の能直(よしなお・1172〜1223)は鎌倉時代の守護職(=国司を監督する武家の職制による=守護大名)・・・・・・すなわち戦国大名の一氏。(ちなみに織田家は祖は守護代)。
宗麟の父とその側室の間に生まれた異母弟との家督争い(お家騒動)である「二階崩れの変(にかいくずれのへん)」(1550年=天文19年)で宗麟派が勝利・・・・・・廃嫡されていれば後の宗麟はなかった。
宗麟の弟・晴英(大内義長)は、周防の国の大内氏が陶晴賢の謀反で自害すると大内氏の名跡を継ぎ、周防との関係が安定。その後、肥後の菊池氏を滅ぼし勢力拡大。しかし1557年、弟の大内義長は毛利元就に攻められ自害。元就との密約(宗麟は大内氏に干渉しない・元就は筑前、豊前に介入しない)により勢力拡大を図り、北九州6国に日向、伊予の半国を手中に入れた。
い靴しその勢いも「盛者(じょうしゃ)必衰の理(ことわり)」(平家物語)であり、耳川の戦の敗戦を機に一気に家勢は傾き、秀吉の世になって遂に(秀吉の九州征伐で島津氏が降伏後)滅没した。
つづく。12月9日。

●先々月はオホーツク、先月は大分、そして「今月の旅」は、関ヶ原古戦場と金華山の岐阜城(稲葉山城)でした。宮崎空港→大阪(伊丹)空港→(高速バス)→新大阪駅→(新幹線)→米原駅→(在来線)→大垣駅(レンタカー借)→関ヶ原古戦場→長浜(1日目宿泊)→(2日目)岐阜城(稲葉山城)→岐阜駅(レンタカー返却)→(東海道線)→名古屋駅→(新幹線)→東京(2日目宿泊)→(3日目)東京散策→宮崎帰還・・・・・・でした。今回の旅は、歴史上の人物でもっとも尊敬する天下人、「織田信長」が天下取りに本腰をいれた居城、稲葉山城を見、そして天下分け目の戦である関ケ原合戦の地を直に踏んで、東西陣営の布陣の位置的関係を知りたかったからです。それでは、乞うご期待あれ。つづく。12月8日。


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今週の親仁ギャグ・2019年12月1日(日)〜12月7日(土)

間宮林蔵の「親仁」的な最終文・・・・・・「樺太へゆくぐらいのことなら、むかしから日本人は行っている。それに、欧州の探検家や地理学者は樺太が半島であると考えていたが、日本人はむかしから島であることぐらいは知っていた。」(司馬遼太郎・「街道をゆく・38」・p278・朝日文庫)・・・・・・こんなことをいわれたら、間宮林蔵の努力や業績なんて身も蓋もないが・・・・・・そうだったのでしょう。もうひとつ、間宮林蔵は樺太を一周したわけではありませんから・・・・・・どうして「島」であると確信したのか・・・・・・少し疑問ですが。とまれ、「ここは日本国である」と標柱を立ててもらっていたら・・・・・・それこそ正に真の偉人になり、金字塔を打ちたてたのですが。12月7日。

●ついでながら龍馬を支援した人物たち・・・・・・長崎では小曾根乾堂(1828〜1885・事業家・書家・文人画家・篆刻家)に大浦慶(1828〜1884・女性・日本茶輸出先駆者)、山口(下関)では白石正一郎(1812〜1880・清末藩領竹崎の荷受問屋で大年寄・勤王の志士たちを支援・文久2年(1862)、土佐を脱藩した龍馬は、最初に白石邸を目指した・小倉戦争の際、高杉晋作とともに、白石邸を訪問)と伊藤助太夫(1830〜1872・長府藩領下関の本陣主で大年寄・慶応元年(1865)以来、龍馬の止宿先・慶応3年(1867)の春には、下関居住を決めた龍馬に、自宅の一室「自然堂」を提供)・・・・・・そして長州藩が龍馬につけた用心棒の三好慎蔵(1831〜1901・長府藩士・宝蔵院流槍術=三叉槍の名手・印藤聿の紹介で、龍馬と知り合う・薩長同盟締結直後、龍馬と寺田屋で遭難し、以来、龍馬とは篤い友情で結ばれた・龍馬は慎蔵の家に度々足を運んで、土蔵の中で密談を交わす・いろは丸事件の談判の際には、龍馬からお龍の後事を受託)・・・・・・ほかにも大勢いそうですがここに挙げた人たちは、長崎・下関でのその代表でしょう。竹島開拓について言及した書簡を受け取った人物が印藤聿(いんどうのぶる=豊永長吉・1831〜1911・長府藩士・龍馬と長府藩府を結ぶパイプ役・維新後は、龍馬の夢を継ぐかのように財界で活躍し、関門地域の殖産興業に尽力・渋沢栄一らとともに門司の築港も着手)であります。その印藤聿について、「親仁ギャグ」も書いていました。2017年9月3日のもの(文章)です。
龍馬と高杉晋作の親交はかなり深淵なものであった・・・・・・という譚。龍馬が最初に下関を訪れたのが1862年(文久2)であり、2度目は1865年(慶応元)の閏5月1日に筑前黒崎から下関入り。その後の京都の近江屋で暗殺されるまで、龍馬は多くの月日を下関で過ごしたという。その間は1865年から1867年の3年間である。龍馬が多くの人に送った書簡が残されているが、その中には長州人も少なくない。少なくないどころか極めて多い。その筆頭が印藤聿(1831〜1911)で、彼は主に龍馬と長府藩を繋ぐパイプ役のような役割を担っており、三吉慎蔵(1831〜1901)の『日記妙録』によれば「我が藩士の龍馬に交わるは印藤聿を最初とす」とある。龍馬の護衛役を務めた三吉慎蔵はこの印藤の紹介による。龍馬が薩長同盟を締結させた直後の寺田屋事件の折、龍馬はピストルで応戦し、ボディガードの三吉慎蔵は得意の鑓で奮戦し、双方とも逃亡に成功した・・・・・・「寺田屋事件」はあまりにも有名である。そして革命に必要なのは資金であるが、下関にはそのパトロンも存在していた。白石正一郎(1812〜1880・廻船問屋)と伊藤助太夫(いとうすけだゆう・1830〜1872・長府藩おかかえ本陣で大年寄)は双方とも豪商。親交厚い(熱い)晋作は、本藩を萩から(支藩である)長府に替えようと考えていたため過激攘夷・俗論両派に命を狙われてたが、そのテロリスト、晋作に望みを託して資金援助を惜しまなかったのもふたりである。晋作(奇兵隊)は主に白石正一郎に、龍馬(薩長同盟)は伊藤助太夫の援助を受けた。

つづく。12月1日。

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今週の親仁ギャグ・2019年11月24日(日)〜11月30日(土)

龍馬が書簡に遺した竹島(鬱陵島)への想い・・・・・・それは1867(慶応3)年3月6日、長府藩士・印藤聿に宛てたものです。「『先日より病気二て』とし、阿弥陀町自然堂に引き籠り中『三月六日、ねられぬまま』筆を執り箇条書長文を認め(以下略)・・・・・・」たのです。(現在の鬱陵島を当時の日本では「竹島」と呼んでおり、現在の竹島を「松島」と呼んでいた)。
▼第三段
上一段二段の事どもつらつら案ずる所、彼竹島行の事ハ兼而御聞ニ入置候通り、三大夫ニも御聞ニ入レ申セしニ、随分御同心ニ候て、何レ近日二度ビ関ニ出候而 決定可レ致との事なりし。其後ハまだニ御めニかゝらず、御返じを相待所ナリ。然ニ当今世上の人情目前の事斗でなけれバ、相談ハならぬ事故ニ諸人ハ竹島行の事共ハ、皆無用の事として大夫が遠大の策にハ随ふまじくか、然レバ其事ハ行ハれまじく残念の儀に相察し候。
▼第七段
大洲の船、石炭費用一昼夜ニ一万五千斤(故ニ二万斤の見込ナリ。)タネ油一昼夜ニ壱斗、
彼竹島ハ地図を以て側算すレバ、九十里斗なるべし。先頃井上聞太、彼島ニ渡りし者ニ問しニ、百里ナリ、とおふかた同じ事ナリ。其島ニ渡る者の咄しニ楠木ニよく似てありしもの、広くハ新木在レ之、其外、壱里余より弐里もあらん平地ありしと也。島の流レハ十里斗なりと、小弟曽而長崎二二て聞しニ何とも相似たる咄し也。是本一ツ所より出たる咄しならんかともうたがふ。下の関ヨリ行テ下の関ニ帰ル
彼島ニ行て唯かへれバ三日のひまとるべし。但し下の関より。
▼第十段
御頼申上度事ハ三大夫及君御召立がとゝなハずとも、山に登りてハ材木を見、木の名を正し、土地を見てハ稲及むぎ、山にてハくわの木はぜの木、其地ニ応じ候や否を見る者、一人海ニ入り貝類、魚類、海草などを見るもの。
(▲御セ話可レ被レ遣候やと頼申上度事ハ、此儀にて御座候。)
上件小身ニ一生の思ひ出とし、良林及海中の品類よきものを得バ、人をうつし万物の時を得るをよろこび、諸国浪生らを命じて是が地を開かすべしと、其余思千万ナリ。(以下略)。

この手紙(書簡)が書かれたのは1867年で龍馬暗殺の約8カ月前です。竹島事件は1830(天保元)年に発生していますから、日本(江戸幕府)が竹島(鬱陵島)を朝鮮李王朝と認めてから30年以上が経過しています。龍馬もこのことは知っていたことになりますから、この手紙の内容は竹島奪還とも受け取れます。龍馬の領土意識が興味深いですな・・・・・・あらためて龍馬が生き続けていてくれたら・・・・・・と想うばかりであります。

参考:「龍馬の手紙」(宮地佐一郎・講談社学術文庫)、「龍馬書簡集」(高知県立坂本龍馬記念館)、「坂本龍馬からの手紙」(宮川禎一・教育評論社)
つづく。11月30日。

間宮林蔵(1775〜1844)はアイヌ語を話すことができたし、数理に明るく、伊能忠敬(1745〜1818)にも見いだされるばかりか門人として愛され、忠敬をして「相親シム、師父ノ如シ」と言わしめた・・・・・・ほどの人物であった。隠密になっても天性のマルチな才能を活かしたのであろう。活動量も並大抵ではなかったことがその足跡からはっきり分かる。(唐突だが)さきの竹島事件であるが、坂本龍馬(1835〜1867)が誰かへの書簡で竹島(=鬱陵島・現在の竹島は当時、松島と呼んでいた)について書いていたのを、ふと思い出した。早速調べたら、やはりその書簡掲載の本はすぐに見つけた。龍馬の世界観の広さと見識の高さにあらためて驚いた。龍馬が初めて江戸遊学したのが1853(嘉永6)年で、小千葉道場で剣術修行を始めた直後の同年6月3日、黒船が浦賀に来航したのであるから、忠敬はもちろん、林蔵もすでに鬼籍にあった。つづく。11月29日。

間宮林蔵のその後・・・・・・幕府の隠密(密偵)として後世に名を残した史実2:竹島事件(1830年=天保元〜1836=天保7)
江戸時代、浜田藩御用商人、回船問屋の会津屋八右衛門は借金苦の藩財政再建のため、朝鮮(李王朝)と密貿易を提案し、鬱陵島(当時日本では「竹島」)をその拠点としていた。
この密貿易には浜田藩の在国家老岡田頼母、在国年寄松井図書はじめ、藩主で老中の松平康任も黙認しており、目論見どおり巨利を得て藩財政再建に成功。
しかしこの密貿易は国禁であり、それを幕府隠密の間宮林蔵に密貿易を探知され発覚。
1836年(天保7年)6月、大坂町奉行の手によって頼母の家臣で藩勘定方の橋本三兵衛と会津屋が捕らえられ、12月23日に処分が幕府より言い渡される。頼母、図書は切腹、橋本三兵衛と会津屋は斬罪、また藩主の康任は死罪こそ免れたものの永蟄居。藩そのものは陸奥棚倉へ懲罰的転封。
頼母、図書、橋本、会津屋らは、財政危機を救おうとした人物たちとして、地元を中心に支持は根強い。

そこで、現在の「竹島問題」との関連・・・・・・
現在の鬱陵島を当時の日本では「竹島」と呼んでおり、現在の竹島を「松島」と呼んでいた。
元禄時代の鬱陵島の領有問題(竹島一件=当時鬱陵島には朝鮮人が居住)の結果、日本は鬱陵島への渡航を禁止したが、現在の韓国はこの時松島(現在の竹島)も竹島(鬱陵島)と同時に放棄したと主張。
しかし、竹島事件の判決文の中には、橋本三兵衛が会津屋八右衛門に対して「右最寄松島へ渡海之名目を以て竹島え渡り稼方見極上弥々益筋に有之ならば取計方も有之」と語ったことが記されており、「竹島一件」後も松島(現在の竹島)への渡航は禁止していなかった。現在の日本では、竹島一件において幕府が自ら放棄したのは竹島(鬱陵島)だけであったとことが確認できる。
しかし「朝鮮竹嶋渡航始末記」には、竹島事件の尋問中に会津屋八右衛門が書いた方角図が添付されており、「竹嶋」「松シマ」が朝鮮半島と同じ朱色で着色されている。そのため、韓国では当時の日本で松島(現在の竹島)が朝鮮領と認識されていた証拠であると主張。
竹島一件:1692年(元禄5年)から1696年(元禄9年)1月まで日本と朝鮮との間で争われた鬱陵島の領有問題。 (以上、Wikidediaより)。
つづく。11月28日。

間宮林蔵のその後・・・・・・幕府の隠密(密偵)として後世に名を残した史実1:シーボルト事件
オランダ商館付医官、P.シーボルトが文政11(1828)年帰国に際し、当時、国禁であった日本地図 (幕府天文方高橋景保が伊能忠敬のつくった日本および蝦夷の地図を写して贈った) などの国外持出しをはかり、シーボルト以下、多くの幕吏や鳴滝塾門下生が処罰された事件。文政 11年8月9日の暴風で稲佐のなぎさに座礁した『コルネリス・ハルトマン』号の修理のために降ろした積荷から発覚し、11月10日商館長メイランを通じて地図そのほか 26点の品を押収、たびたび尋問の末、シーボルトは翌12年9月25日長崎奉行より国禁 (国外追放) を受け 12月5日、日本を去った。また高橋景保は同11年10月10日に検挙され、翌12年2月16日に獄死したが、死骸を塩漬にされ、同13年3月26日死刑の判決を受け、その家族、部下、通詞、医師四十数名が遠島以下諸種の処分を受けた。幕府は、これを機会として、より一層洋学者の行動をきびしく監視するようになった。」(ブリタニカ国際大百科事典より)。
このシーボルト事件を密告したのが林蔵であると、当時は信じられていたという・・・・・・果たして真相は???(分かりません)。
:伊能忠敬の日本地図(伊能図)の写しは座礁した船から見つかったのではなく(出航前の船には未だ積荷してなかった)、出島での家宅捜索時が史実とされている。
:林蔵が密告したのは高橋景保との確執があったとか。シーボルトは林蔵が採集した蝦夷地の植物の標本を所望する手紙を出したが、林蔵は手紙の封を開けずに上司に提出した(外国人への個人的な贈答は国禁であると、林蔵は考えた)。これがシーボルト事件の発端とされる。
つづく。11月28日。

間宮林蔵が間宮海峡を発見するまで・・・・・・その2
樺太調査に選ばれた二人は、ロシア軍艦の出没が常に念頭にあり、いつ死ぬかわからない状況から出発にあたってはその前に墓を建てたり、遺言をのこした。伝十郎は従者を江戸に帰し、年月が経って帰国しない場合は、「ソウヤ出舟の日を忌日と定めよ」とした。林蔵は、一度常陸筑波郡上平柳村(現・伊奈町)に帰り、菩提寺の専称寺の片隅に小さな墓を建て、その墓石には「間宮林蔵之墓」と自筆した・・・・・・という。そして1808年、樺太目指し図合船で宗谷を出港した。
出港の当日、林蔵らふたりは樺太のシラヌシに着いた。ふたりはここから東西に分かれて、伝十郎が西海岸を、林蔵が東海岸を北上した。林蔵はアニワ湾のコルサコフ(大泊)で最上徳内に会った(徳内は頻繁に樺太を訪問していた)。そして多来加湾岸のシャクコタン(散江郡散江村)に到達するも、それ以上は困難を極め、再び南下して最狭部であるマーヌイ(栄浜郡白縫村真縫)から樺太を横断し、西岸クシュンナイ(久春内郡久春内村)に出て海岸を北上後、北樺太西岸ノテトにて伝十郎と合流。その後ラッカに至り、樺太が島であるという推測をし、そこに「大日本国国境」の標柱を建てた。文化6年6月(1809年7月)、宗谷に帰着。
最初の樺太探検から宗谷に帰着してからは僅か20日ほど休息し、再び樺太に向かった。この2度目の樺太探検で黒竜江河口の対岸に位置する北樺太西岸ナニオーまで到達し、樺太が半島ではなく島であることを世界で初めて実検・確認し、1809年11月、宗谷に戻った。
つづく。11月25日。

間宮林蔵が間宮海峡を発見するまで・・・・・・その1
常陸国筑波郡の農家の生まれ。江戸後期には農民の子供から医学や理学に秀でた偉人が多く輩出された。そのひとりが最上徳内(1755〜1836)で、1792年に樺太に上陸している。(それ以前にも松前藩は1635年に佐藤嘉茂左衛門と蠣崎蔵人を、1636年には同藩の甲道庄左衛門(越冬調査)をそれぞれ派遣したし、1790年には「カラフト場所」を設置。)
幼少時は永年蝦夷地調査に従事した村上島之允に学び、さらに伊能忠敬にその才能を見出され門人となった。
そしていよいよ幕府が樺太調査の人選にあたり、ついに松田伝十郎(越後国柿崎の農民出身)と林蔵が抜擢された。
つづく。11月25日。

●さらに間宮林蔵について・・・・・・まずは樺太探検(間宮海峡発見)に至る時代的背景について
宗谷は鎖国の江戸時代、唯一開かれていた長崎(中国・オランダの2国)のように外国との交流が許されていた。江戸幕府は見て見ぬふりをしてい、容認していた。
宗谷との交易ルートは「樺太」であった。樺太の語源は不明だが、1説には樺太経由で入ってきた中国産の玉、「樺太玉」(からふとだま=刀の帯締めなどに使用)からか。江戸時代の樺太は、奥蝦夷とか北蝦夷とよばれていた。
その重要な交易ルートであった樺太と宗谷・・・・・・18世紀になると欧州の航海家や探検家が宗谷海峡を航海した。1787年のド・ラ・ペルーズ(仏)、1797年のW・R・ブロートン(英)、1805年のI・F・クルーゼンシュテルン(露)。
しかし、彼らは樺太が島であることを実検できず、「韃靼大陸の一半島」としていた。
・・・・・・そこで間宮林蔵の登場となる。
つづく。11月25日。


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