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親仁ギャグ

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今日の親仁(オヤジ)ギャグ

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今週の親仁ギャグ・2018年9月16日(日)〜

●水軍の首領は、簡単に言うならば、浦方の守護か豪族であろうか。戦国の世のように領地や勢力争いが激化すると、どうしても陸方には勝てず、それらの武将に従属するしか術がなかったのであろう。九鬼水軍は信長の、村上水軍は毛利の・・・・・・といったようにだ。「江戸時代には、幕府や海辺に領地をもった大名は船手組、船手方、船手衆などと呼ばれる水軍をもち、幕府では向井氏、長州藩では能島氏、尾張藩では千賀氏のようにかつての海賊衆の末裔たちが世襲して維持したが、戦争の絶えて久しい平和な時代にあっては領内の海上交通を管理したり、領内巡察や参勤交代などで大名が船旅するときに船を出したりする程度の役割でしかなかった。幕末に至って欧米諸国を範に幕府や雄藩は近代的な艦隊の創設に向かうが、そのときにはすでに海軍という用語が用いられ、水軍の名は過去のものとなる。しかしながら、幕末の海軍創成期には、水夫達のかなりの人員が水軍の伝統ある地方の出身であった。」(Wikipedia引用)。今回の瀬戸内横断夜間旅行は水軍が活・暗躍した時代に比し島嶼の地形は少しも変っていない筈なのに残念ながら夜間航海ゆえに当時の風景を連想することすら不可能でした。思考を変えて再チャレンジであります。9月17日。

固定リンク | 2018年09月16日【574】

今週の親仁ギャグ・2018年9月9日(日)〜9月15日(土)

●脱線の脱線の大脱線ですが、水軍時代の瀬戸内海の船の航行がどのような状況であったのかが興味の根端であります。瀬戸内に浮かぶ海岸線(外周)が100m以上の島の数は全部で727であります。その数多い島嶼の合間を縫いぐるっていたであろう水軍。それを創造しただけでも楽しいのでありますからフェリーに乗り瀬戸内横断旅行をした訳です。それなのになにせ夜間航行ですから周りの小さな島々まではとんと拝むことが不可能でした。夜中に2度ほどデッキに出ましたが凪なのに強風が吹きつけ海面を覗こうものなら、吸い込まれて落ちそうな感覚に襲われました。実際、私が乗った数日後の新聞に男性がフェリーから転落したのか、行方不明との記事が載っていました。結論は、瀬戸内海の島々の地勢と景観を堪能するなら別の手段を選ばないとダメですよ・・・ということです。ちなみに日本国の島の数は本土の5島を含め6852(北方領土含む離島が6847)であります。これまた余談ながら国際的な大陸の定義(曖昧ですが)はオーストラリア大陸よりも小さければ、それは島です。9月12日。

●江戸末期までは駕籠や大八車(江戸前期に登場)が輸送の手段であった我が日本民族がどれほどの船を浮かべていたか??? それでも朝鮮半島や中国大陸から造船技術を習得したであろうから、それなりの規模はもっていたのでしょう。高田屋嘉兵衛も日本海やオホーツク海で北前船を滑走させていたのだから。中国大陸沿岸やそれ以南の国々まで出向き海賊行為を極めた水軍ですから、海の大八車のレベルでなかったことは確かでしょうが。ある辞書の人力車は、「1869年(明治2)東京日本橋で料理人をしていた和泉要助が蓮台(れんだい)や西洋の馬車にヒントを得て考案,知人の鈴木徳次郎,高山幸助との連名で,東京府に製造と輸送業務を出願して営業許可を得,翌70年3月,日本橋南詰西側の高札場のかたわらに〈御免人力車処〉ののぼりを出して営業を開始した。」とあり、なんと日本人の発明だったのであります。私も浅草寺でお世話になりましたが。つづく。9月12日。

広辞苑の水軍は「中世、瀬戸内海・西九州沿海に本拠を持つ、水上戦法や操船にたけた地方豪族。戦国時代には大名の各陣営に加わる。海賊。」とあり、Wikipediaによれば、「『水軍』の呼称は江戸時代以降に用いられるようになった表記であり、それ以前の古文書では『海賊』と呼ばれていた。海賊という名称には海の盗賊としてのネガティブなイメージが強いが、陸で武力を持った武士たちが政権(武家政権)の成立に至ったのに対し、海の武士団である海賊衆は権力を持たないままだったため、海賊の名称は無法者の意味がそのまま定着したとも言われる。 そのため、海賊は権力に組みこまれることを好まない独自性の強い立場であったが、戦国時代になって台頭した戦国大名に対して水軍力(海の治安維持や武力)を提供できるほど組織化された海賊衆が『水軍』と呼ばれる。(略)島国日本では隣国の朝鮮と同様に、古代から沿海部に居住する海民が水上兵力として活躍した。古代ヤマト政権の時代には、日本の水軍を支えたのは安曇部(あずみべ)や海人部(あまべ)、津守氏といった海の氏族たちであった。古代の日本においては国家の背骨は大阪湾、瀬戸内海にあり、紀ノ川流域の紀氏のように瀬戸内海に対する天然の良港を持ち、後背に木材産地を確保した大豪族も独自の水軍をもって活躍した。(略)織田信長は勢力拡大の過程で志摩の守護九鬼氏出身の九鬼嘉隆を臣属させ、九鬼氏が率いる九鬼水軍を主体とした水軍を編成した。」・・・・・・とある。水軍で名だたるものが戦国時代には毛利氏に従った村上水軍や、熊野水軍、そして上記の九鬼水軍などだが、その数はまさに枚挙にいとまがないほど多い。つづく。9月12日。

●瀬戸内の船旅には以前よりずっと興味がありましたね。13世紀から16世紀にかけて瀬戸内などを中心に活躍(暗躍)した海賊。いわゆる倭寇もその一部に属します。倭寇は前後期に分けられ、前期は14世紀前後であり、海賊の人種(民族)は瀬戸内海や北九州の日本人に一部高麗人が含まれ、朝鮮半島、中国沿岸部と一部の内陸、東アジアの諸地域まで活躍の範囲がありました。後期倭寇の活躍は16世紀であり、後期倭寇の中心は密貿易の中国人でありました。中国人の占める割合は7割であり、残りの3割に壱岐対馬、松浦、五島、薩摩の日本人であり、なかにはポルトガル人もいたそうです。後期の倭寇は、実質的には倭寇と呼べないくらい密貿易の中国人が大きく幅を利かせていたのですが。事実、倭寇の親分(首領・元締め)は中国人(明国)の王直(?〜1557)であり、王直が本拠地としたのがなんと長崎の五島でありました。これまた史実でありますが、明が滅んだ原因のひとつが「中国製倭寇」だったのです。つづく。9月11日。


固定リンク | 2018年09月09日【573】

今週の親仁ギャグ・2018年9月2日(日)〜9月8日(土)

 今週も新築病院の現場監督やら、そして何よりも北海道の旅で「親父ギャグ」をさぼってしまいました。9月6日の午前3時8分には札幌市のホテル(札幌駅とすすきのの中間地点)で就寝中でありました。震度5強を実体験し、そして何よりもホテルのスタッフの温かい対応に感謝感激しました。わたしの人生での貴重な体験でした。

固定リンク | 2018年09月02日【572】

今週の親仁ギャグ・2018年8月26日(日)〜9月1日(土)

固定リンク | 2018年08月26日【571】

今週の親仁ギャグ・2018年8月19日(日)〜8月25日(土)

一茶の里の次は南西へ降って長野市の善光寺であります。長野市では「東山魁夷美術館」を一番に訪ねたかったのですが、生憎この1〜2年はリニューアルとかで休館中なのであります。善光寺と言えば最近、住職のパワセクハラスキャンダルで脚光を浴びました。本来は、「特定の宗派に属することなく、独自の信仰的存在として信仰を集め、善光寺詣でが盛んに行われた」歴史があり、「現在は僧寺の大勧進(天台宗)と尼寺の大本願(浄土宗)が共同管理している」(三省堂スーパー大辞林)寺であります。善光寺のホームページには、「信州善光寺は、一光三尊阿弥陀如来様を御本尊として、創建以来約千四百年の長きに亘り、阿弥陀如来様との結縁の場として、民衆の心の拠り所として深く広い信仰を得ております。(略)戦国時代に入ると、善光寺平では武田信玄と上杉謙信が信濃の覇権を巡り、川中島の合戦を繰り広げました。弘治元年(1555年)、武田信玄は御本尊様や多くの什宝、寺僧に至るまで、善光寺を組織ごと甲府に移しました。その武田家が織田・徳川連合に敗れると、御本尊様は織田家、徳川家の祀るところとなり、最後は豊臣秀吉が京都・方広寺の御本尊としてお奉りいたしました。そして、秀吉の死の直前、如来様がその枕元に立たれ、信濃の地に戻りたい旨をお告げになり、それによって慶長三年(1598年)、四十数年ぶりに善光寺にお帰りになられました。」とあり、それ以前の鎌倉時代には源頼朝や北条一族、浄土真宗宗祖の親鸞聖人、時宗宗祖の一遍上人も参拝に訪れた名刹中の名刹なのです。宗派にこだわらないことから民衆に広く慕われているのですが、「牛に引かれて、善光寺参り」という諺があることでも、その愛されようが知れます。この「牛に引かれて、善光寺参り」とは以下の昔話に由来しますが、ストーリーは必ずしも唯一無二ではないようです。ここでは「福娘童話集」を掲載します。

 むかしむかし、布引山(ぬのびきやま)という山のふもとのある村に、とてもケチなおばあさんが住んでいました。
 おばあさんは、いつも一人ぼっちでしたが、それをさびしいと思った事は一度もありません。
(誰かと仲良くしたら、お茶やお菓子を出して、わしが損をする。それに家にあげれば、部屋が汚れる。だから、一人がいい)

 さて、今日は村の近くの善光寺(ぜんこうじ)というお寺で、お祭りがある日です。
 おばあさんが庭で白い布を干していると、お祭りへ行く村人たちが声をかけて来ました。
「おばあさん、今日は善光寺へ行く日よ」
「ねえ、みんなとお参りしましょう」
 でもおばあさんは返事もしないで、白い布を干し続けていました。
「やれやれ、やっぱり駄目か」
 村人たちは誘うのをあきらめて、行ってしまいました。
 その後ろ姿を見ながら、おばあさんは言いました。
「寺に行って金を使うなんて、もったいないねえ。それにわたしゃあ、神も仏も大嫌いさ。拝んだところで、腹一杯になるわけじゃなし、お布施(ふせ)を取られて大損だよ」
 するとその時、どこから来たのか、おばあさんの目の前に大きな牛が現れたのです。
「うひゃーっ!」
 おばあさんがびっくりして声を上げると、その声に驚いた牛が、おばあさんの干していた白い布を角に引っかけて駆け出しました。
「ああ、こら、待て!」
 おばあさんは、牛を追いかけます。
 牛は白い布を角に引っかけたまま、どんどん走って行きます。
 その早い事。
 菜の花畑を駆け抜けて、桜林を駆け抜けて、まるで風の様に走ります。
 そして牛は善光寺まで来ると、門をくぐって境内へ走り込みました。
 その後を、おばあさんも叫びながら走り込みました。
「こらー! 牛ー! わたしの布を返せー!」
 ところが不思議な事に、牛の姿が突然消えてしまったのです。
「ああ、わたしの布が・・・」
 がっかりしたおばあさんは、その場へ座り込みました。
 もう疲れ切って、へとへとです。
 するとどこからか、やさしい声が聞こえて来ました。
 それは、お経を唱える声です。
 その声は、おばあさんをやさしく包み込みました。
 それはまるで、春の光が体の奥からゆっくりと広がって行く様です。
「おや、こんなにいい気持ちは初めてだ。心が暖かいよ」
 おばあさんは、目を閉じました。
 するとおばあさんの目から、涙がどんどんあふれました。
 その涙は、おばあさんの心をきれいにしていく様でした。
 やがてお経が終わる頃には涙も止まり、おばあさんの心はすっきりと晴れていました。
 おばあさんは、生まれて初めて手を合わせました。
「きっと仏さまが、わしをここへ連れて来て下さったんじゃ」
 それからというもの、おばあさんは村人たちに優しくする様に努めました。
 出来る手伝いがあれば、自分から進んで手を貸しました。
 そうすればするほど心が暖かくなるのを、おばあさんは知ったのです。
 おばあさんは、もう一人ぼっちではありません。
 いつも村人たちに囲まれる、心優しいおばあさんになったのです。

 さて、その事があってから、布引山には白いすじが見られるようになりました。
 それはおばあさんの白い布を引っかけて走って行った牛が白い布を山に残して、それがそのまま白い岩になったのだと言われています。

おしまい

8月19日。

固定リンク | 2018年08月19日【566】

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