今日の親仁(オヤジ)ギャグ

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今週の親仁ギャグ・2020年4月26日(日)〜5月16日(土)

●いやはやコロナ騒動でも月日の過ぎるのは、当たり前ですが常に同じです・・・・・・が、コロナ後の時間経過の感覚は”ゆるり”であります。ニシタチにも通勤不可ですし、野球中継も視れないし、好きな高校野球観戦もできません。自然、外的刺激に触れる機会もしこたま減少しており、ブログのネタも尽きているのですが・・・・・・それでもアンテナを張り巡らして情報をキャッチしなくてはなりません。それに私の場合の巣ごもりは、やはり読書です。10年前、1日に100ページ読み進んでいたのが、昨今ではその半分の50ページとペースダウンしましたので、その影響もあってブログの更新が滞っています。TACホームページの最近のアクセス数が増えているのも巣ごもり効果でしょうから、わたしも頑張ってネタ探しのための巷間見聞に努めます。3週間も更新をさぼってしまったことをお詫びします。(それでも全身アルコール消毒だけは欠かさず励行しております・・・・・・呵呵!!)。5月16日。


固定リンク | 2020年04月26日【663】

今週の親仁ギャグ・2020年4月19日(日)〜4月25日(土)

聖徳太子は紛れもなく百年にひとりの天才でしょう。何が偉いかと云うと、それは国家の屋台骨となる様々な有形無形のものを創造しました。
 日出處天子致書日沒處天子無恙云云」は、隋の「隋書」(倭国伝)に書かれた文章で、倭王(推古天皇)から隋の皇帝煬帝に宛てられた公文書文言である。「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや云々」・・・・・・日出づる処の天子は日本国の推古天皇であり、日没する処の天子とは煬帝と云うことになる。この無礼なる文面に煬帝は激怒したとされますが、隣国・高句麗との険悪な関係を鑑み、怒りを歯噛みしながら押し殺したのでしょう。その隋と高句麗との好もしくない関係をうまく利用したことになります。この天子の公文書をもって大陸に渡ったのが、小野妹子はじめの遣隋使(600年〜614年の間に6回)です。この小野妹子の遣隋使派遣については、日本書記(巻第22)に書かれてあります(推古天皇15年=607年に小野妹子を隋派遣)。
△修譴泙任涼羚(漢民族)はまさに「中華思想」の本家であり、聖徳太子以前の日本を含め周辺諸国の多くが、中国への朝貢を行っていたのですから、いきなり「日出づる処の天子」と名乗られたのですから、中国皇帝(煬帝)の憤怒はいかほどのことだったのでしょうか。
聖徳太子が行った国内の諸改革
冠位十二階の制定(603年):官人の階級
憲法十七条(604年)
史書の編修(620年):「天皇記」「国記」など。
暦法の採用:太陰暦採用(百済の観勒が602年に伝える)。
法隆寺などの大規模寺院建造。
これらすべてが国威の発揚国家意識の高揚のために行われたのです。当時初めて日本に渡来してきた外国の人々は、たとえば法隆寺を見たとき、その威容さにハッと息を呑んだに違いありません。
つづく。4月25日。

●聖徳太子の生年は574年で、推古天皇の摂政に就いたのが593年ですから、摂政就任時の年齢は19歳と云うことになりますか。タッグを組んだ蘇我馬子の生年は不明ですが没年は626年で、聖徳太子の没年が622年ですから、ふたりのヤマト政権支配は30年前後と云うことになりますか。日本の屋台骨の基礎をつくる時間としては十二分にあったということでしょう。つづく。4月25日。

●聖徳太子と法隆寺の承継・・・・・・
J部氏と蘇我氏の対立の原因は、仏教受容の問題と用明天皇死後の皇位継承問題とが絡んでおり、ついには武力衝突のなった。587年、蘇我馬子が物部守屋を滅ぼし、馬子の推す崇峻天皇が即位した。これによって蘇我氏がヤマト政権の政治を掌握することとなった。
い箸海蹐その後、馬子は崇峻天皇と対立し、592年に天皇を暗殺した。そして次に即位したのが推古天皇(卑弥呼を別にすれば、わが国最初の女性天皇)であり、その推古天皇は甥の厩戸皇子(厩戸王=聖徳太子)を摂政とし、聖徳太子に政治を行わせた。結果、聖徳太子と蘇我馬子とが協調して国政改革にあたり、天皇中心の国家形成をめざした。
つづく。4月20日。


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今週の親仁ギャグ・2020年4月12日(日)〜4月18日(土)

●法隆寺といえば、聖徳太子です。聖徳太子の実在を否定する説もあるようですが、やはり太子ほどの大人物無くして日本の礎は築けなかった・・・・・・のは疑いのないことでしょう。聖徳太子は574年に生まれ、622年に亡くなっています。まさに飛鳥時代に生きた方であり、活躍した人物です。飛鳥時代は、6世紀末から7世紀前半と区分され、推古(天皇)時代ともいわれます。それでは、聖徳太子出生前から没後までの日本史における事件を中学校の歴史教科書レベルでまとめてみますか。
ー拉和羚餮紊肪太犬靴織筌泪叛権は、大和を中心とする畿内豪族の政治連合体であり、その首長が王(国際的には「倭王」と称したが、国内的には「大王」=おおきみ=だいおう)であった。その大王こそが、のちに天皇と呼ばれたのである。この大和政権は遅くとも4世紀なかばころまでには成立したことが、前方後円墳などから裏付けられている。そしてその本拠地は、多くの水系をもち水田農業に適地であった奈良盆地東南部の三輪山(桜井市)付近と考えられている。(因みに卑弥呼の纏向遺跡も桜井市にある)。
5世紀後半以後、田荘(たどころ)や部曲(かきべ)を拡大した中央豪族は、互いに政権抗争を繰り返すようになった。その豪族の大物が大伴氏であり物部氏であり、そして蘇我氏であった。大臣(おおおみ)の葛城氏や平群氏の没落後の6世紀初め、大連(おおむらじ)の大伴(金村)氏が越前(あるいは近江)から継体天皇をむかえ、勢力を拡大した。そして540年、物部(尾輿)氏は大伴金村を失脚させて大連となり、大臣の蘇我稲目と対立した。

以下次週に、つづく。4月18日。


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