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今日の親仁(オヤジ)ギャグ

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今週の親仁ギャグ・2018年2月18日(日)〜2月24日(土)

●「周防岩国の産です。-で私は、帰国した後も、毎日、練磨を怠らずに、錦帯橋の畔へ出て、燕を斬り、柳を斬り、独りで工夫をやっていました。-母が亡くなります際に、伝来の家の刀ぞ、大事に持てといわれてくれましたこの長光の刀もって」・「銘はありませんが、そういい伝えています。国許では、知られている刀で、物干竿という名があるくらいです」(吉川英治著「宮本武蔵(二)」pp394〜395・新潮文庫)。吉川英治はこの「宮本武蔵」で小次郎を「美少年」と書いているが、慶長17年4月13日(1612年5月13日)の巌流島での決闘時の年齢は、宮本武蔵が20代で佐々木小次郎が60歳近くだったとされる。70歳前後との説もある。出身(出生)についても、豊前国田川郡副田庄(現福岡県田川郡添田町)や、1776年(安永5年)に熊本藩の豊田景英が編纂した『二天記』では越前国宇坂庄浄教寺村(現福井県福井市浄教寺町)と記されており、諸説ある(Wikipedia参照)。秘剣「燕返し」は、錦帯橋(錦川)の畔の柳が燕を打つのを見ての発想と云うが、福井の一乗滝で身につけたとされている説が有力。そもそも錦帯橋が最初に架けられたのが岩国3代領主の吉川広嘉の時代(1673年)であり、このとき既に小次郎の死から60年が経過しているから、錦帯橋説はない。いずれにしても吉川英治の創作であることは確かだろう。小説とは左様なものである。春の訪れと日に日に増す日照時間に心浮かれ、親仁ギャグが間延びしてしまいました。悪しからず。つづく。2月24日。


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今週の親仁ギャグ・2018年2月11日(日)〜2月17日(土)

相撲協会が揺れているにしてはいかほど改革されるのか。元来、同業人の集合体は自己保身と既得権保持を目的とする組織だから、それを破壊して新しい秩序を築くには想像を絶するエネルギーが必要だ。だんまりの貴乃花親方が今度はテレビで2時間、熱弁を奮った。去年は相撲界にとって受難であった。その一つが富岡八幡宮の姉弟の正に骨肉の争いであり、殺人に自刃の刃傷沙汰が起こった。この富岡八幡宮は、五代将軍綱吉の時代、「勧進相撲」がはじめて許されれた神社である。深川に富岡八幡宮ができたのは三代将軍家光のとき。五代綱吉はなぜか深川の発展に尽力した。江戸の相撲が組織化して実力をもったのは江戸の中期と云う。木戸銭を取る興業相撲は京・大坂では豊臣時代からはじまり江戸に先行していた。江戸初期には、この上方での興業が終わると江戸に下って行った。深川の富岡八幡宮の境内での最初の勧進相撲が行われたのは、1684(貞享元)である。勧進とは、寺社への寄進のことであり、寺社の袞竜や修理など運営費を広く民衆から募ることである。富岡八幡宮は勧進相撲以外にも金集めへの執着が他よりも強かった節がる。「富くじ」である。竹でこさえたのが籤であるが、当時は富札の入った箱に錐で突いていたことから、「富突」とも言った。古典落語の「富久」にも富岡八幡宮がちらりと出て来ると云うから、富岡八幡宮の金への執着は今に始まったことではないようだ。このように商売の上手な寺を仏教界では昔から「肉山」(にくさん=金の入る寺)と呼ぶらしいので、富岡八幡宮の場合は「肉宮」なのだろうか。執拗な金への執着が生んだ悲劇であり、血肉を砕く結末となったのだ。富岡八幡宮の事件と相撲協会のスキャンダルはたまさか重なったのだろうが、金と地位への執着はほどほどにしなくてはいけませんよ、という警鐘ですぞ。(以上は、司馬遼太郎「街道をゆく・36」朝日文庫・pp55〜65を参考にした)。2月12日。


固定リンク | 2018年02月11日【532】

今週の親仁ギャグ・2018年2月4日(日)〜2月10日(土)

●広辞苑によると、荒木村重は「安土桃山時代の武将。織田信長に属し摂津を領したが、叛いて毛利と結ぶ。のち剃髪して筆庵道薫といい、茶道に長じ秀吉に接近。(〜1586)」とある。「『鬼灯』創作ノート-荒木村重のことども」ではどうか。丹波の生まれで、一僕から身をおこし摂津国の国主となる。天正六年正月、かれが安土城へ伺候したとき、信長が脇差を抜き、かたわらのまんじゅう(肉ともいう)を突き刺して村重に食え、といったという話である。・・・・・・村重は拝跪しつつ進み出、手を使えば畏れがあり、このため犬のように口だけ突き出してまんじゅうを食い取り、そのあと白刃のよごれを自分のい袖でぬぐいとり、しずかにさがってまた拝跪した。」。この時既に村重は織田家の六人の高級司令官の一人であったのだが・・・「ひとびとは村重の豪胆におどろいたと言い・・・・・・」となる。天正六年六月に播州上月城外の高倉山での合戦時、秀吉軍の応援をせず、結果として信長の命令に背いた。信長軍が石山本願寺を包囲している時、村重の家来が敵方(石山本願寺と毛利方)に米を売った。細川幽斎がこれを信長に報告した。村重は自分が本願寺に内通しているように疑われることを怖れるとともに、信長の性格を考慮して(殺されるに違いない)、信長への謀反に至った。毛利と信長を天秤にかけた結果かもしれないが・・・。以上の話から容易に想起されるのがこの四年後の「本能寺の変」である。光秀の謀反は合点のいくところだったのだろうが、「信長公記」では、「不実に思食され、何扁の不足候哉」とつぶやいたと云うから、信長にとって村重は意外だったのだろう。村重は伊丹城(当時は有岡城)で信長の大軍と戦ったが、村重はほとんど身一つで支城の尼崎城に逃避した。それも家来と女子供を伊丹城に残してである。信長は、「尼崎を開けば、伊丹城にいる千人前後の女子供の命をたすける」という条件をだした。血も涙もないというか、「武士の情(名こそ惜しけれ)」の片隅にも置けないというか、戦国の御大将が信長の条件を受け入れず(老臣ともども)、いずことなく遁走した。「伊丹城の数百の女子供は村重の妻女や、村重が愛した側室の”たし”をふくめて、ことごとくが信長によって磔殺、焚殺された」のである。村重は畿内を流浪し続け、やがて元朋輩の秀吉に拾われ、こともあろうか(秀吉は何を思ってか)秀吉の御伽衆として余生を送った・・・・・・ということである。その余生も華やかそのもだ。利休の高足七人のうちのひとりでもあり、この時代の高名な茶人であった。号は「筆庵道薫」で、「荒木高麗」、「兵庫の茶壺」、「姥口の平釜」の所持者として、今もその道で知らない人はいないと云う。稀有な戦国大将の生き様なのだ。とまれ、鳩山由紀夫元総理と荒木村重の生き様、どこか類似点がありませぬか。御伽衆として彼を雇い得る大人物が平成の世にいるや否や。そう考えると村重のほうが鳩山氏よりも「なかなかの者よのお」・・・・・・なのか。2月12日の「菜の花忌」を間近にして司馬さんの記念館の菜の花が切り取られた事件。それも約770本の多さだ。さもしい人間もいるものだ。2月8日。

●1月29日の報道で、「鳩山氏はこの日午前、反対派が抗議活動をしている移設先の米軍キャンプ・シュワブ前を元民主党国会議員らとともにスーツ姿で訪問。『アベ政治を許さない』と書かれたプラカードを持って道路脇に座り込んだ。取材に対し『みんながトラックの資材搬入に抵抗しようとしていたので、居合わせた私も協力したいと中に入った。日本人として(辺野古移設を)もう一度考え直さなければならないと自分にも言い聞かせて行動した』と述べた。鳩山氏は民主党代表当時に普天間飛行場の移設先を『最低でも県外』と唱えたが、民主党政権は代替案を見つけられず、辺野古移設に回帰した経緯がある。(産経ニュースを抜粋)」。このニュースに接して、理想はそうだろうがその無責任さは総理の現職時代といくらも変わってないどころか、ロシア訪問など過去の言動を見るにも、情けない、日本の恥さらし男ナンバーワンだなと感じ入ってました。そして今日の午前中、「『鬼灯』創作ノート-荒木村重のことども」(司馬遼太郎「歴史のなかの邂逅2」・pp47〜63・中公文庫)を読んでいたら、鳩山由紀夫氏と戦国大名の荒木村重の人生が重なったので紹介します。司馬さんは最後に、「村重的な権力現象は、決して奇談ではない。すでにそれを村重が現出させた以上、当然、人間の世の中で、歴史時間と関係なくつねにおこりうるし、どの社会においてもそれがおこりうる危険性をすべて持っているように思える。」と書き締めている。「中央公論」1975年12月号の掲載である。つづく。2月7日。

●広島原爆投下の爆心地である島病院(現島内科医院)前の碑には、「テニアン島から飛来した米軍機B-29『エノラ・ゲイ号』によって人類史上最初に使用された原子爆弾は、この上空約600メートルでさく裂しました。爆心直下となったこの一帯は、約3,000度〜4,000度の熱線と爆風や放射線を受け、ほとんどの人びとが瞬時にその生命を奪われました。時に1945(昭和20)年8月6日午前8時15分のことでした。」。この碑文の上には「現地点から見た北方の惨状 1945年11月 米軍撮影」という注釈入りの写真が焼き付けられたあります。今回の旅でも広島と長崎の原爆投下について深く考えさせられました。どのような理由があれ無差別の人間大量殺戮はあってはなりません。戦争に至った経緯について国民一人ひとりが広く深く思いを巡らすことが必要です。教育はこの点に多くの時間を割くべきです。小学・中学・高校の縄文時代や弥生時代、それに平安時代までの歴史教育はあまり重要でない筈です。さらに言及すれば、歴史教育は明治維新以後からスタートさせ、時間が残れば駆け足で縄文〜江戸時代を教えても良いでしょう。広島市民は未だ原爆の後遺症に苦しんでいます。原爆後遺症や発癌などの問題、被爆者への差別、被爆者同士の差別など、被爆による影響は多岐にわたっています。われわれ旅行者が軽々に原爆を論ずることは、あの熱線と爆風による多くの犠牲者に対してすこぶる失礼だとも思いました。広島平和公園訪問から早や3週間、今も頭から消え去らないのは2歳で被爆、12歳9か月で亜急性リンパ性白血病に罹患し亡くなった佐々木禎子(1943〜1955)さんの棺の中の写真です。「中学校の体育の先生」になるのが夢で、1955年2月に診断され、同10月25日の朝に危篤におちいりました。 父親から食べたい物は何かと尋ねられ、「お茶漬けを食べたい」と伝えました。沢庵と共にふた口食べ、「あー、おいしかった」とつぶやき、これが最期の言葉だったということです。彼女が「原爆の子の像」のモデルであり、彼女が薬の袋で折った千羽鶴が平和のシンボルであり、オバマ大統領が資料館に残した千羽鶴でもあります。犠牲者に改めて冥福を祈る気持ちです。2月7日。


固定リンク | 2018年02月04日【539】

今週の親仁ギャグ・2018年1月28日(日)〜2月3日(土)

●次に狙われ投下されたのは長崎市です。1945年8月9日11時2分、市街中心部から3km逸れて、松山町171番地を爆心地として約500m上空でプルトニウム型原子爆弾=「ファットマン」が炸裂しました。高度9000mのB-29搭載の「ファットマン」は同10時58分に投下されたのです。長崎は「武蔵」はじめ多くの戦艦を造った造船所があり酸素魚雷基地もありました。そして針生電波塔を有し、これは戦時の重要な情報基地でもありました。実は、この長崎は第1目標ではなく第2の標的地でした。テニアン島を離陸した「ファットマン」は同9時44分、第1目標地の小倉陸軍造兵廠上空に達しました。小倉とその周辺の八幡をはじめ今の北九州市は軍需工場の拠点であったのです。それから45分間、「ファットマン」は目視によって3度の爆撃航程を行ったが失敗し、遂に天候悪化と燃料費消の嵩みが原因で小倉上空での原爆投下を断念、長崎へ向ったのです。目視が不可であった天候悪化以外の原因には、前日米軍が行った八幡市空襲の残煙による霞や、八幡製作所の従業員が新型爆弾投下の警戒からコールタールを燃やして煙幕を張ったとの証言があります。その他、日本軍高射砲からの対空射撃の激化や、芦屋飛行場からの五式戦闘機や築城基地からの「ゼロ戦」10機の緊急発進も挙げられています。いずれにしても戦争に大きくかかわり、当時人口が多かった都市(当時の長崎市人口は福岡市、八幡市に次ぐ九州第3位)を狙っての原爆投下と云うことです。つづく。1月29日。

広島市原爆投下は昭和20(1945)年の8月6日、午前8時15分です。その年の12月までの死者は約15万人、被爆者は56万人を数えました。マンハッタン計画によって、マリアナ諸島のテニアン島を離陸したB-29(エノラ・ゲイ号)は約7時間の飛行を遂げ、広島上空に至りました。途中、四国上空で日本のレーダーに発見され、日本軍の戦闘機の追跡と射撃をうけましたが、巧くかわして、目標地点である相生橋(本川=旧太田川と元安川の分岐点)上空約1万メートル(9632m)から「リトルボーイ」を投下しました。43秒後、「リトルボーイ」は目標から少し外れた島病院(現島内科)の上空約550メートルで核分裂爆発したのです。今回の広島訪問後、直ぐに10年前の子供の中学と高校の社会の教科書を捲って見ました。写真付きでありますが、原爆についての記述は1ページ未満でした。連合軍(アメリカ)が原爆投下に至った経緯については何の記載もありません。10年経った今、教科書の内容がどうなったのか、暇を見つけて市内の教科書販売店に行ってみます。なぜ広島が狙われたか。当時の広島は戦艦造船や軍需品製造の基地であり、多くの将校が住み、軍人はここから戦地に向かい、そして帰還して来ました。敵にとって許しがたい日本の軍需工場の拠点だったのです。また広島は、元は湾であり埋立地であります。今も地下鉄ができないのは地盤が弱いためです。弱い地盤のため当時の建物は多くが木造で、高さもせいぜい3階でした。これは原爆の熱線によって延焼しやすいということです。以下は乗せてもらったタクシーの運転手さんが話してくれたことですが、「広島駅前に今も残る100メートル道路は、敗戦を覚悟した日本軍の司令官ら将校が、ここから飛行機で脱出すらための専用道路として造ったもの」だそうです。一度も使用されませんでしたが。つづく。1月28日。


固定リンク | 2018年01月28日【537】

今週の親仁ギャグ・2018年1月21日(日)〜1月27日(土)

姫路城の譚。2015年の松江城の国宝指定によって、現存天守の「国宝5城」は姫路城、彦根城、犬山城、松本城、松江城。今回の姫路城訪問で3城を征服。あとの2城は数年前訪問の彦根城と25年前の松江城。次は松本城と決めているのですが、会津若松以来、雪国は真っ平御免です。長野は松本城の他、善光寺、真田の上田城址、東山魁夷美術館(現在建て替え中で閉館中)、小林一茶生家、蕎麦の戸隠、それに甲府側からの富士山・・・・・・などと魅力がたっぷり満載であります。ところで天守が現存の城は、「国宝5城」を含め12城あります。そのうちの4城が四国であります。松山城に宇和島城に高知城に丸亀城ということです。龍馬記念館も只今、リニューアル中であります。もとにもどっての姫路城の譚。姫路城には「お菊井戸」・「姥が石」・「宮本武蔵の妖怪退治」・「お夏・清十郎」などがありますが、なんといっても悲劇は「棟梁・桜井源兵衛の自殺」でしょう。池田輝政の命で9年間、棟梁として姫路城の築城に尽力した男です。完成直後、彼には城が南東(巽)の方向に少し傾いている気がしてなりませんでした。これを妻に「お城は立派ですが、惜しいことに少し傾いていますね」と指摘され、「女の目に分かる程の傾きなら自分が計った寸法が狂っていたに違いない」と愕然となり、彼はノミを口にくわえて天守から飛び降りたのであります。事実、城の傾きは解体修理で確かめられ、原因は東西の石垣が沈下したためでした。その傾きは、昭和の大修理(開始は1934年=昭和9・大戦を挟んで1950年に再開・1956年から1964年まで大天守等の解体修理)前の調査で、本来の東大柱の中心線から東南方向に約37センチでした。最初は小さかったかもしれませんが、長い年月で37センチに至ったのでしょうか。仕事師の責任感の極みである。1月24日。

錦鯉の譚。小西養鯉場の水槽やコンクリートで仕切られた池には、それはそれは大小多くの、そして色とりどりの錦が所狭しと泳いでいました。風にゆうゆうとたなびく皐月の鯉のぼりも綺麗でありますが、それとは比べ物にならないほどの華麗さであります。覗き込むと餌を欲しさにおちょぼ口をめいめいに開けてねだる仕草は可愛さで心がとろけてしまいそうです。鯉の色については、ふつうの黒色は真鯉、烏鯉、黒鯉と呼ばれ、野生の鯉は野鯉というそうです。赤い鯉は緋鯉ですが、観賞用の錦鯉については、その模様で多くの品種があります。最近では鱗が大きくて部分的にしかないドイツ鯉も移入され、それとの交配で品種改良も進んでいるそうです。色鯉については、4世紀の西晋時代の書物に登場しているそうですが、錦鯉の養鯉については、19世紀の新潟県小千谷市と旧山古志村が世界で最初と云うことです。その始まりは、農民が田圃で、一部の鯉が他のものより明るい色をしていることから気づいたそうです。そうすると、錦鯉は突然変異的な要素があるということでしょうか。明るい色の鯉は目立つため鳥などに捕食されやすいので生後早くに淘汰されたということでしょう。ところでいろいろ調べてみると、鯉の寿命は大変に長いんであります。錦鯉は、雄が2年、雌が4年で成魚になり、最低でも20〜30年くらい、飼育環境次第では50〜70年は生きれるそうです。日本最長寿は、岐阜県東白川村の池で飼育された1751年生まれの「花子」という緋鯉が226歳まで生きたそうです。むろん水がきれいでなくてはいけ(池)ません。山から水を引いてくるか、山間で飼育するしかないということです。ちなみに先週の親仁ギャグの錦鯉の写真の年齢は6〜7歳ということでした。6〜7年で大きいものは20キロ位に成長するそうです。それにしても頭頂だけが真っ赤の「赤ヘル」錦鯉3匹が一緒の水槽で泳いでいましたが、なかなかシャッターチャンスを与えてくれませんでした。そこで思ったのですが「恋は気まぐれ」・・・・・・いやいや(否否)「鯉の気まぐれ」・「鯉が気まぐれ」」・・・・・・鯉も気まぐれな奴らでした、という譚。「色恋(色鯉)は(も)奥が深い」んであります。そうそうこの「小西養鯉場」さん、外人さんの観光客も多いそうです。1月21日。


固定リンク | 2018年01月21日【536】

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