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<link>http://tabaru.9syu.net/column/column.htm</link>
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<language>ja</language>
<pubDate>Fri, 04 Jul 2008 10:01:49 +0900</pubDate>
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<title>「夜間病院1周年」と「テレビ出演」・その2</title>
<link>http://tabaru.9syu.net/column/perm/35.htm</link>
<description>Q3.(関アナ)つづいては、こちらも先生が院長を務めておられます、県内唯一の夜間専用の動物病院の診療を追いました。・・・・・(4月22日イブニングニュース「密着」のテープが3分間流れる)・・・・・。

(関アナ)愛好家の方には、本当に頼りになる病院だと思いますが・・・・・。田原さん、夜間の動物病院での業務で、昼間との違いなど、ありますか?。

Ans3.病気全般で言うと、病気の頻度は異なりますが、種類(病名)はヒトとほぼ同じです。最近では、人間(飼い主)の病気はそっちのけで、ペットにちょっとでも異状がみられれば病院に連れて来られる方も少なくありません。家族の一員として、家族同様に治療を受けさせてあげようという飼い主が明らかに増えています。そして、ヒトよりも高価な薬を注射したり、服用するケースも少なくないのが現状です。
　　夜間病院はどうかと言うと、これもまた人間と同様に、病気はいつ何時に発症するか分かりませんので、昼間と夜間の診療で基本的な差異は有りません。ただし、動物(イヌ、ネコ)は病状が相当に進行しないと症状が顕性化しません。これは人間のように自覚症状で病院に行くのと異なり、飼い主が動物の異状を他覚症状として認知し得る段階では手遅れの場合も稀ではありません。
  　飼い主の方も仕事の関係で昼間の受診が不可能な場合や、前述のように帰宅後に動物の異変に気づくケースも多々あるわけですから、夜間病院があることで、「非常に利用しやすく、行きやすい」という言葉を度々伺います。夜間病院は現在のところ、宮崎に一つですから、重病の患畜が一晩に10件近く来院することもあります。これに加え昼間の診療のようにワクチン接種や健康診断などが少ない分、労働的には大変さが有ります。

Q4.(関アナ)いざという時には、夜間動物病院で緊急手術などの処置をしてくださるわけですが、一方で、田原さん、ペットに異常があったときに、ただちに病院には頼らず、私たちでもできる対処法をいくつか教えていただけますか?。

Ans4.(フリップを提示)はい、こちらにありますように、いくつか気になる事項を挙げてみました。
　　まず?の拾い食いはダメ!ですね。夕刻の散歩中に田んぼの土手で農薬の付着物を食して全身痙攣で夜間に運び込まれたイヌもいます。解毒薬を投与し、全身麻酔下で胃洗浄を実施しなければなりません。その他、イヌ・ネコの糞便や土を舐めて悪玉菌が入り、下痢・嘔吐症を惹き起すケースも多々あります。拾い食い癖のあるイヌの散歩は明るい内に、口輪を付けるなどして行くことを勧めます。
　　?番目ですが、メタボオヤジが言うのも説得力に欠けますが、肥満の「メタボペット」にさせないことです。糖尿病でインスリンを注射しなくてはならない動物が年々増えています。インスリンは自宅で飼い主が毎日注射しなくてはなりません。また、高齢になるに従い、変形性脊椎症や骨・関節症、関節炎、靭帯断裂などの骨・関節疾患が増加しますが、肥満はこれらの疾患リスクの大きな一因です。
　　?番目は小さい時からの「しつけの徹底」です。家族に従順なイヌにしつけることで、イヌに多く見られる結膜炎や外耳炎、歯槽膿漏の予防ができ易くなります。眼洗浄や耳洗浄、歯磨きや歯石除去などのメンテナンスが容易となります。また、ちゃんとしたシャンプーや皮膚の消毒が可能なことで、皮膚病をコントロールすることができます。分離不安症はイヌが飼い主と「乳離れ」していないことにより起こりますが、「ひとりでも留守番ができる」という、これも小さい時からの重要なしつけの一つです。分離不安症のイヌは、留守中にゴミをあさったりして、いろんなものを食べ、開腹手術をして摘出しなければならないことも稀ではありません。
　　最後の?番目は、できれば動物を飼い始める前から、犬種特有の病気について勉強しておくことが大切です。イヌはその種類によって、特定の病気に対する遺伝子を生まれながらにして保有します。今流行りのM.ダックスフントは「椎間板ヘルニアの突出症」になり易い性質がありますから、肥満犬にしないこと、階段の昇降やベッド、ソファからの跳び下りをさせないように、小さい時からしつけておくことが最善の予防策です。ポメラニアンやトイ・プードル、ヨークシャー・テリアは気管が扁平で狭くなる「気管虚脱症」になり易い犬種です。普段から肥満にせず、かつ無駄吠えをしないようにしつけておけば、発症を抑えることが可能となります。是非、自分のペットの「好発疾患」について調べてみて下さい。

Q5.(関アナ)たいへん勉強になりました。ところで、田原さん、イヌの肥満度合はどうやって見分けるのですか?。

Ans5.胸壁のところの皮膚を本当に軽く触って(触れて)、肋骨に触れればOKです。少し押さないと分からない状態では肥っています。シャンプーの時に肋骨が浮き出て見える時は痩せ過ぎです。肥ってきたら、食餌を2〜3割減らして、様子を見ましょう。目標体重の1kg当り30kcal/日のカロリー計算で痩せられます。運動(散歩)を増やすことも大切です。


　　以上、今回も貴重な体験をさせて頂きました。ディレクターはじめ、多くの方々のお世話になりました。関知子アナウンサーの時間調節能力にも、恐れ入り、感心いたしました。専属コメンテーターの阿部豊彦さんにも気を使ってもらいました。この分野の職場にも「戦場」を感じました。MRTの関係者の皆様、本当に有難うございました。


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<pubDate>Tue, 03 Jun 2008 21:01:46 +0900</pubDate>
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<title>「夜間病院1周年」と「テレビ出演」・その1</title>
<link>http://tabaru.9syu.net/column/perm/34.htm</link>
<description>　　5月18日、夜間救急病院「宮崎犬猫動物病院」が開院して1年が過ぎた。この日は来院数が20頭を超え、けたたましい夜であった。小生も夜8時過ぎから11時過ぎまで手伝ったが、夜間救急の認知度が上がり、患畜が増えることに感謝すると同時に、責任の重さを痛感している。
　　これに先立ち、4月23日にMRT放送のイブニングニュースの特別企画「密着」で「夜間動物病院獣医師の奮闘記」が放映された。放送の1週間前に取材依頼があり、4月19日と21日の両日、みっちりと「密着取材」を受けた。「密着」の企画は1週間のみで5つの事業所が紹介されたが、その1つに選ばれたのは真に光栄なことである。放送は5分30秒間あり、手前味噌だが、良くできた感動の時間であった。ディレクターはじめ関係者のプロ技に感服の至りであった。
　　そして今月(5月)の17日にもMRTの担当から電話が入り、「先日の放送に対する反響が良かったので、今度は土曜の朝の生番組に出演してくれないか。それもゲストコメンテーターとして出演してくれないか。」との依頼であった。番組名は30分ものの「土アップ」、特集名は「最近のペット事情」とのことだ。その場で承諾すると、翌日の18日に担当ディレクターより設問事項の書かれたファックスが送られてきた。19日に返答の内容を書いたものをファックスすると、数時間もしないうちに、「ほぼ9割完成分」なるA4で7枚分の「台本」が送られてきた。これまた対応の速さに感心した。
　　放送当日の17日は、7時に家を出て、7時半にはMRT-miccに到着、5階の報道部で係りの人が現れるのを待った。控え室では専属コメンテーター、アナウンサーと挨拶を交えたミニ歓談をし、8時から本番同様にイキナリのリハーサルが始まった。これが小1時間かかり、小生の割り当て分では3分強の時間超過と言う。「ここらを1、2箇所省いたら如何でしょうか。」と指摘され、30分の休憩を挟んで、本番開始である9時半の5分前にスタジオに再入場した。


　　ここで「最近のペット事情」で「しゃべったこと」を公開したく、「肉付け(補足)」してまとめてみた。

　　Q1.(関知子アナ)今日の土アップ、死者が5万人を超えているという推計もある、四川大地震のニュースから、ご覧いただきました。・・・・・田原さん、負傷した人の救急体制も、十分でないようですが、医療にたずさわる方として、どう、ご覧になりますか?。
　　Ans1.経済ではグローバル化が進んでいるのに、ミャンマーのサイクロン災害もそうですが、最も貴重であるべき人命救助や救護の面で、何ものかの力が働き、遅々として進まないのは本当に残念です。日本の救助隊の一員としてのシェパードが今朝のニュースで映っていましたが、犬は臭いの種類によっては人の嗅覚の百万倍から1億倍の能力が有ります。また、聴覚も人の4〜10倍(5万Hzまでの高音)の音が聴取可能です。日本の救助犬3頭の手柄がテレビの画面で一刻も早く見れることを期待しています。

　　Q2.(関アナ)「今週の土アップ」のコーナーです。みやざきのペット事情について、お送りします。・・・・・。日本では、いつの時代から犬を飼うというのが始まったのですか?。
　　Ans2.今から1万年前の縄文時代には既に犬は狩猟犬として、(家畜ですね)、として飼われていました。縄文犬と言われるものです。体高が40cmくらいで、今の柴犬風と思ってもらえばいいのですが。この時期の犬と人間との関係は良好で、縄文後期の遺跡や貝塚からは人と犬の骨が一緒に出てくるそうです。遺跡からは解体されて人に食された形跡の骨は無いそうです。反対に人並みに埋葬されているそうです。これが弥生時代になると、稲作の伝来で、狩猟の重要性が薄れたのでしょうか、解体されて食されていたのが、遺跡から分かっているそうです。この時代、人と犬との関係は良くなかったと言えます。江戸時代になると国宝の「彦根屏風」に描かれている様に、犬は紐で繋がれ、一つのファッションとして江戸の町を闊歩していたことが分かります。それまでは猫は家の中で飼われていたのですが、長い間犬は放し飼いだったのです。この江戸時代の初期に犬と猫の飼われ方が逆転したのです。家康は1612年、浜名湖付近でシカ狩りを行い、この時使用した輸入猟犬であるグレイハウンド風の大型犬が影響して、それ以降武家の間でこの犬種がブランド犬として流行ったとのことです。「大奥」では狆が「座敷犬」や「抱き犬」として持て囃されました。5代将軍の綱吉に至っては、「生類憐れみの令」の一環として、1695年に中野に犬小屋を作り、約5万頭もの犬を収容しました。綱吉が「犬公方」と言われる所以ですが、強制収容の状況下が、果たしてしあわせであったかどうか疑問符が付くところでしょう。そして現在の「伴侶犬」として、時にはストレス社会に生きる飼い主の「愚痴聞き犬」になって、社会貢献するまでに至っています。「動物管理法」や「動物愛護法」という法律によっても身を護られるようになっているのです。そして病気になれば、病院に行き、可能な限りの治療を受けさせてあげ、人以上に高価な薬も服用する時代です。

Q3、Q4、Q5は次回につづく。

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<pubDate>Thu, 22 May 2008 15:06:52 +0900</pubDate>
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<title>「花見」と「高みの見物」。</title>
<link>http://tabaru.9syu.net/column/perm/33.htm</link>
<description>　　この4月16日と17日の2日間、本院のスタッフで小生の実家へ「花見」に行った。16日朝8時、病院に集合し、入院の世話と預かり犬の散歩などをして、9時過ぎに発った。一つ葉有料道路を北上し、佐土原で10号線に入り、中途川南でトイレ休憩を取り、美々津大橋手前を左折し、山陰を経て、坪谷の「若山牧水生家」に10分程立ち寄り、神門に向かった。10号線の「ゆずり車線」が増えており、100キロの道程が正味2時間弱であり、この数年間で相当に早くなったのが喜ばしい。今後も一部3車線を増やせば、宮崎-日向-延岡間は時間的にさらに短縮されるであろう。
　　アメリカは日本に比べ土地が平坦で、国土も約28倍と広大である。ハイウエイは直線で2〜3キロあるところも珍しくない。しかも料金はタダ=トール・フリー(toll-free)である。ヨーロッパの道路事情も同様に感じた。日本は川沿いで断崖絶壁のところに道を抜かなくてはならないことも少なく無い。道路用地の買収にもカネが掛かる。欧米と比べて数倍の金が必要であろうことは想像に難くない。それでいてEUのガソリン価格は日本より高いという。ガソリンの適正価格はいくらであろうか。政治家、官僚、マスコミは、諸外国と比較した正確な資料を公開・説明する義務と責任がある。そうしないと話が進まない。国民はこれ以上国には騙されまいと、皆疑っているのだ。これは国会議員など国のレベルだけの問題でなく、県や市町村のレベルでも議員はじめ関係者は国と同様な責任を負っていることを胆に銘じているのか、甚だ疑問である。国家に金が集まると、国民の目が行き届かない。「目的税」としてのガソリン税の使途は、県レベルで予算執行されないと、庶民の監視は誤魔化される。
　　「道路特定財源」、「ガソリン暫定税率」という言葉は果たして的を得た言語(げんご)であろうか。道路の現状維持のための補修・整備、台風や地震、雪害などがもたらす道路損壊の復旧、今後も必要となるであろう新設道路、環境税の側面、受益者負担の問題など・・・、多角的に検討し、適正であろうべき税の上乗せをすべきであろう。当然名称も早急に変えなければならない。何事も「原理原則」と「名」は重要である。集められた税金は「原理原則」から懸け離れた方面への使途で有ってはなならない。何れにしても「納得の行く説明」を早くして貰いたい。これが次の段階への最低で必要にして絶対の条件である。
　　道中は割合に快適なドライブであった。我が家の愛犬のうちの一匹「ベル」も同行した。この7月で満14歳になる雑種犬だ。生後2日目で捨てられていたのを小生の連れ合いが人工哺乳で育てた。「ベル」は道中の2時間、運転席と助手席の間の肘置きに前肢を置き、後肢は後部座席に置いて四つん這いでのたちっ放しであった。道が良いことの1つの証明であろうか。小生の荒っぽい運転が余程に怖かったのかもしれないが・・・、翌日はいつも以上に終日寝ていた。


　　ところで本題の桜の花見はどうであったろうか。
　　
　　桜の系統はバラ科のサクラ亜科、サクラ属、サクラ亜属に分類される。日本にはヤマザクラ群(ヤマザクラ、オオヤマザクラ、カスミザクラ、オオシマザクラ)、カンヒザクラ群(カンヒザクラ)、エドヒカン群(エドヒカン)、チョウジザクラ群(チョウジザクラ)、マメザクラ群(マメザクラ、タカネザクラ)、ミヤマザクラ群(ミヤマザクラ)の10種のサクラが自生し、これらが自然交配または先達が育成した300以上の「里櫻」があるという。　　
　　「里櫻」は広辞苑によると「?人里に咲く桜。⇔山桜。?オオシマザクラから園芸的に作られた桜の一変種。ヤエザクラなど園芸品種の大部分のものとされる。花は大きく芳香があり、花期がやや遅い。」とある。週刊・花百科?(2004年3・4月号、講談社)「さくら」では、”オオシマザクラを親としてできた園芸品種のサクラを「里桜」という。一重や八重、色や香りなどが違うさまざまな品種がある。現在、日本で植栽されているサクラの70%は「染井吉野」。「吉野」の名から改名されたのは明治33年(1900年)”とある。別名「八重桜」あるいは「牡丹桜」とも呼ばれることもある。八重桜は広辞苑では「重弁の花の咲く、サトザクラの品種群。他の桜におくれて開花。花色は淡紅・紅・淡黄色などを呈し、濃艶。ボタンザクラ。」とある。前出の「さくら」によれば、「八重とは花弁が10枚以上の花を指す。」とある。
　　要は、「里桜」とは、「染井吉野」に代表されるようにオオシマザクラを親とする園芸品種のサクラ群で、その中でも花弁が10枚以上の桜を「八重桜(=牡丹桜)」という・・・と理解して良いのだろうか。

　　そうだ、われわれ一行は小生の実家の「八重桜」を見に行ったのである。が、やはり「花より団子」、桜は二の次で実家に到着するや否や親父が作製した「バーベキュー」の七輪セットに群がった。それ以後、スタッフは食うわ食うわ・・・皿、茶碗、箸を置くことなく食いっ放しであった。お袋の「煮しめ」、イノシシの塩焼と汁もの、鹿刺し、庭先飼育地鶏の備長炭・炭火焼、・・・。水は傍を流れる谷の水、米は自家製の減農薬「はぜ掛け米」であるから、美味くない訳がない。一行一同、堪能したに違いあるまい。

　　「花見」はどこから見ても心地好い。渦中の「道路特定財源」、「ガソリン暫定税率」は「高みの見物」であってはならない。「花」に浮かれていては、この国の前途は「茨の道」だ。首相の「この制度は、国民のためにもなるんです・・・・・。」の「にも」発言には愕然とした。大企業や政治家、官僚のための「汗水」は1滴たりとも垂らしたく無いのが、国民感情だ。

　　それにしても久々の2連休を頂き、神宮分院と夜間病院のスタッフに感謝!、感謝!。





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<pubDate>Tue, 29 Apr 2008 14:42:10 +0900</pubDate>
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<title>春が来た-走り・旬・名残-。</title>
<link>http://tabaru.9syu.net/column/perm/31.htm</link>
<description>　　来た、来た、春が来た。咲いた、咲いた、さくらが咲いた。出た、出た、初物が出た。最近は居酒屋通いが殊の外、楽しみだ。日没も遅くなり、明るいうちからのビール1杯は格別である。美味くて安い、旬の物が目白押しで、流涎ものだ。
　
　　4月1日、今年も焼き鳥の名店・中央通の串道楽「座王」の大将・高木さんからの「初物の携帯」が鳴った。青島獲れ初鰹の「餅鰹」が手に入ったとのことだ。早速、連合いとスタッフ3人を引き連れての「餅鰹詣」に行き、初物を頂いた。餅鰹は死後硬直が解ける前のものなので、春でなくとも食することができるが、そのモチモチ感と味の本領は春でないとダメである。「初鰹」は広辞苑によれば、「一番早くとれる走りのカツオ。美味で、珍重される。」とある。「目には青葉　山ほととぎす　初鰹」(素堂)、「鎌倉を　生きて出でけむ　初鰹」(芭蕉)、「女房を質に入れても食べたい初鰹」からも分かるように、江戸の昔から初鰹は美味かったのだ。初鰹の値段は米俵4俵であったというからビックリ仰天である。青魚特有の臭みが他の季節に比べてかなり少ないと感じられるのは、焼酎漬けの小生の舌のせいではなさそうで安堵した。青島港から2時間の沖合いで獲れた一本釣りの鰹は、帰港まで2時間かかり、港で待ち受けた大将が中央通の「座王」まで運ぶのに1時間を要し、小生ら「のんべぇー」の胃袋に到達するにはさらに1時間かかる。総じて最低4時間が必要である。これに加えて鰹は割いてみなければ中身が上質か反対の「ごり鰹」かが分からんというから、輪をかけた厄介ものである。青島の漁師さんをはじめ並々ならぬ労苦があっての「餅鰹」であることを忘れず、青島の方角に手を合わせて一咬・一噛頂こう。「漁師さま　座王さま　餅鰹さま」。

　　天ぷらもイケル。秋に河口で産卵されて孵化した鮎は、河口付近の海中で成長し、この時季には5〜10cmの稚鮎となり、溯上をはじめる。この溯上間近の、川底の苔を食する前段階の「稚鮎」の天ぷらはこの時季限定の宝物である。淡白すぎる身と胆汁の苦・渋味のほんのり感がなんとも言えず嬉しい。西銀座通の酒菜「ふく膳」では、氷水で稚鮎をまっすぐに不動化し、この状態のままで衣に潜らせ天ぷら油に送り込む。稚鮎にはなんとも残酷だが、これまた有難い旬魚である。「ふく膳」ではこの時季、天然のたらの芽はじめ、空豆、茶葉、行者ニンニク、・・・も頂ける。大将・福島さん自らが採取した天然の山さん椒は、正しく青葉にして、噛んでも全く当たらない柔らかさである。その風味は格段に濃厚で「アラの煮付け」の主格とも言える。「ふく膳」ではや々大振りの日南獲れの旭蟹も久し振りに堪能させて頂いた。行者ニンニク(北海道ではアイヌ葱という)5パックも市場よりひいてもらい、その日の内にジンギスカンをして喰らった。ジンギスカンにアイヌ葱は、行者僧がくれた至極の取り合わせである。

　　しら魚もこの時季3度頂かなくては、初夏は迎えられない。しら魚は広辞苑によると「シラウオ科の硬骨魚。体長約10センチメートル。・・・・・春先、河口をさかのぼって産卵。日本の各地に産し、食用。シロウオ(素魚)は外観も習性も本種に似るが別種。・・・」とある。このしら魚、今年は中央通の磯料理「一八(いっぱち)」で馳走になった。もちろん「踊り食い」だ。少量の玉子を出汁で溶いて抹茶茶碗サイズの器に入れ、この中でしら魚を泳がせる。しら魚は跳ねるときだけ姿が見え、残虐心がかなり減弱されるから助かる。先ずは活きの良いやつを宮本武蔵張りに割り箸で1匹素早く摘み上げ、歯を軽めに当てると口腔内のクスグル感が何とも良い。次いで箸の助けを借りながら、4〜5匹をいちどきにすすって放り込めば、口腔内から咽喉頭、そして食道の噴門まで踊るは踊る、踊るは踊る・・・・、至福の30秒間であった。「しら魚のような指」をした美人と一緒に喰らったら、・・・・・・・・・・、そんなに現実は甘くない、甘くない。

　　どこかで書いたが、旬とは10日間をいう。初鰹の旬は幸いにも長いが、稚鮎やしら魚はそうは問屋が卸さない。旬に入る直前に「走り」で喰らい、「旬」に絶叫を上げて喰らい、そして旬が終わって間が無い折に「名残」として喰らう。3度頂かなくては生きている甲斐がない。




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<pubDate>Wed, 16 Apr 2008 13:37:15 +0900</pubDate>
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<title>ペットと飼い主に安心を届ける、宮崎初の夜間病院。</title>
<link>http://tabaru.9syu.net/column/perm/30.htm</link>
<description>　　本稿は宮崎太陽銀行発行の小冊子「宮崎の元気企業見聞録」のインタビューに答えたものです。まもなく銀行の店頭に並ぶ予定です。カラー写真入りなのでどうぞお求め下さい。

「宮崎の元気企業見聞録・太陽がいっぱい-シリーズ52-」
(T)ペットと飼い主に安心を届ける、宮崎初の夜間病院

　　もはや家族の一員とも言えるペット。昔と比べて、生活習慣が変わってきたことによって、ペットにもガンや心臓病、腎臓病などで昼夜を問わず重篤となる症例が増えており、全国的に救急医療が求められてきました。宮崎では、昨年5月に初の夜間専門の動物病院「宮崎犬猫総合病院」が開院。宮崎における獣医療の現状とは?　また、これからの動物病院に求められるものとは?　まもなく開院から2年目を迎える院長・田原秀樹さんにお話をうかがいました。

　　(Q)-必要とされていた夜間病院が、いままで宮崎になかったのはなぜでしょう?　また、宮崎初の夜間病院を開設するまでの経緯をお聞かせください。-

　　(A)-田原院長-　私はずっとペット専用の救急病院がないことに疑問を感じていました。特に夜間専門の動物病院があってしかるべきだと思っていたのです。以前に比べ、動物病院は増加してきましたが、夜間病院が宮崎に限らず全国的に少ない原因は、獣医師の横の連携が希薄なことや一病院当りの獣医師の人数が少ないことによります。常勤の獣医師がひとりの場合、昼間の診療をした後に、夜間もこなすのは体力的に難しいのが現実です。社会的要請が高く、訴訟社会でもあるアメリカでは、地域の動物病院が共同出資して夜間救急病院を運営しています。
　　私は夜間専門の病院を開設しようと思いたち、当初は市郡獣医師会に提案をしましたが、採算的に運営が難しいということで一度は断念しました。急病の動物が毎日来院してくれるとは限らないからです。しかし、その必要性の高まりを感じ、自分でつくるしかないと決心したのです。ホームページを通じて常勤の獣医師を募集した結果、大阪から移住してくれる獣医師が見つかり、昨年の5月18日に「宮崎犬猫総合病院」を開設することができました。

　　(Q)-夜間診療を開設されてから、どのような点に苦心されていますか?-

　　(A)-田原院長- 年中無休で診察をしていますから、私と常勤の先生とでローテーションを組んでいます。お互いに負担がないシステムを確立できてはじめて、救急医療に対応できるわけですからね。この4月から、新たに新卒の獣医師が東京より来てくれました。設備の充実も重要ですが、それ以上に人材の確保が必須であります。
　　当院はもうすぐ2年目を迎えます。これまでには、延岡や都城などの遠方から来られる方もいました。また、中には「夜間に診療してくれる動物病院を転々と探しまわっていたら、ここに行き着きました」と話される方も。宮崎市内だけでなく、市外でも夜間病院の必要性があることを感じました。
　　いまは、とにかく多くの方に宮崎にもペットの夜間病院があることを知っていただきたいというのが願いです。「娘に電話したら、インターネットでここの夜間病院を調べてくれました」という人もいますが、「知人から教えてもらった」とか「車で通ってここの存在を知っていました」というケースが多いようです。やはり口コミの強さを実感しました。いろんな人に知っていただきながら、「夜間病院をやることの意義」を信じて、飼い主の方との信頼関係を築いていきたいと考えています。

　　(Q)-獣医療の現状を踏まえながら、今後の展望と目標についてお聞かせください。-

　　(A)-田原院長-　動物も人間と同様、高齢化が進んでいます。そのため、ガンをはじめ、昔はあまり多くなかった「白内障」や「緑内障」、「認知症」や「老齢性の骨・関節疾患」などが急増しています。
　　獣医療は、新療法の開発で完治できる病気が増えました。しかし、動物のガンの場合、他覚症状として飼い主や獣医師が認知できた時点では、手遅れであることが少なくありません。人間の場合は、すぐ内視鏡やPETなどの最新機器で早期に発見されますが、動物の場合、同様の方法がとられないのは、機器が高価でなかなか導入が進まないこと、導入できても、検査のための長時間の全身麻酔が動物の負担となるからです。
　　担ガン動物に対して、今後、われわれ獣医師が取り組まなくてはならない重大な課題の一つに、末期に見られる疼痛があります。人間と同様に痛みの緩和を主体にした「ターミナルケア」の確立と実践が望まれます。この点についても専門家の養成に傾注しなければなりません。
　　眼科についても「白内障」の手術をはじめとして、その需要は高まる一方ですが手をこまねいているのが宮崎県内の現状です。治療をするために、東京へ行かれる飼い主の方もいます。その話を聞くたびに、宮崎に眼科医がいれば・・・と思います。アメリカではすでに1960年代に獣医眼科専門医制度が誕生しています。東京では眼科の看板を前面に出している動物病院も散見されるようになりました。眼科専門医の確保に尽力しなければと考えています。
　　動物の高齢化に伴う「骨・関節疾患」や「認知症」などに続発する歩行異常や起立困難も大きな問題の一つです。リハビリの設備やプールなどでこのような動物のQOL=
quality of life(生活の質)の向上を図らなければなりません。このようなことを踏まえての「老犬ケアーセンター」の設立も今後検討すべき課題と考えています。
　　しかし、最新の診断装置に頼りすぎるのもまったく問題がないわけではありません。動物の診断は「問診」、「聴診」、「視診」、「触診」、「血液検査」、「超音波検査」、「レントゲン検査」、そして臨床経験の積み重ねによる「第六感」でかなりの部分がカバーできると私は考えています。健康維持の最善の方法は、病気になってから病院に来るのではなく、年に1〜2回の健康診断を受けることです。
　　今後は最新機器の導入など設備の充実を図りながら、迅速・的確な診断、技術が高く失敗のない手術を目指します。そして、臨床経験の豊富な同志とともに、宮崎県内の獣医療の向上を図っていくことが私の目標です。



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<pubDate>Mon, 31 Mar 2008 09:43:55 +0900</pubDate>
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<title>「ねじれ現象」で「ねじれ」が解ける時が”宮崎のチャンス”。</title>
<link>http://tabaru.9syu.net/column/perm/29.htm</link>
<description>　　小生のもとにも「ねんきん特別便」が到着した。「田原」の読み方が「たばる」の他に「たはる」、「たはら」、「たばら」、「たわら」といくつかあるため、「特別便」は期待に違わず来てくれた。大学を辞めて半年間勤務したところが見事に抜けていた。電話に出た社会保険事務所の担当者に少々愚痴ってやった。「アルバイトにキーを打たせたからしょうがないよね。」、「職員は日に5000キー以上は打たないように、組合と取り決めていたんだからね。」、「今まで払ったのを全額返してくれないかねェー。飲み食いでいっぺんに使うよ。みんなそうしたら、それで一気に景気が回復するかもしれないよ。」、「消費税でもいいから、老後の最低限の生活は目的税でやってくれ。」・・・・・などなど。

　　小生は車にあまり興味がない。走ればよし。多分にこの20年間は車を洗ったことも拭いたことも、ガソリンスタンドに洗車にもって行ったこともない。日曜日の1日しか休日の無かった一昔前、午前中や午後の半日を庭先での車洗い、ワックス掛けに潰すオヤジを見ると、ある種の哀しさを覚えた。道路特定財源やガソリンの暫定税率の一部はどういう呼称であれ、全国の道路建設や整備、除雪や台風、地震災害による道路の復旧には欠かせないものだ。そして、最近では環境税としての側面も重要性を増してきた。「受益者負担税」の面もあるが、車を持たずともトラックや鉄道、船での食料をはじめとした生活物資の輸送でガソリンのお世話になっている。飛行機で旅行するにでも然りである。

　　繰り返すが、呼称はともあれ「道路特定財源」と「暫定税率」そのものの考え方が「悪」という国民は少数派であろう。集めた税金が一部の天下り官僚やゼネコン、一部の団体・個人の「甘い汁」の源となっているのに怒っているのである。ずさんな建設計画、大雑把な見積、いい加減な費用対効果の算出、当初の計画の数倍に膨れ上がる建設費の謎、「野球のユニホーム」、「カラオケ」、自腹の積み立てがゼロの「慰安・研修旅行」、熊本の「官製NPO法人」問題、「ミュージカル」や「おもちゃ」などへの出費、などなど・・・・・、ふざけた有様だ。

　　「宮崎に高速道路は必要か?」、「東九州自動車道、延岡・熊本自動車道は必要か?」。小生の実家は美郷町南郷区・神門だ。小学校の時分は、日向までバスで行くのに2時間40分かかった。殆どが舗装されていなかった。バスやダンプが遠くに見えれば、道路の脹らみで停車し、しばし待っての交叉であった。多くの乗客が吐物袋の世話になった。当然、自家用車は今みたいに多くはない。今実家に帰るにも、10号線を通り美々津大橋で左折する近道をしても優に2時間以上掛かる。西都からの農免道路があると聞くが、標識などの「道標」が不親切で迷う。いずれにしても確かに不便である。

　　しかし、今はDoor to doorの状況で、実家の庭まで完全に舗装が行き届いている。昔に比べたら格段の差で、正しく隔世の感ありである。小学生のころ、村の多くの家は庭まで車が入れなかった。人間贅沢を言ったら限(きり)がない。今は日向まで車で40〜50分となり、夢みたいな話だ。高速道路を走ったら、周りの景色が見えない。窓も開けられず、空気も不味い。休憩所や展望所を多く造って、「癒しのロード」も悪くはない。近未来はそういう時代でなくてはなるまい。

　　「一つ葉有料道路・北区間」、「宮崎自動車道」、「南延岡有料道路」、「東九州自動車道・清武-西都間」の利用度はどのくらいだろうか。費用対効果や建設前の収益予測を十分にクリアできているのだろうか。前2者は時に利用させてもらうが、ガラガラに近い状態だ。「一つ葉有料道路・北区間」に至っては、花ヶ島の旧10号線や北バイパスがかなり混んでいるにも拘わらずあまり対向車にあわない。これは小生に限ったことかもしれないが、2〜3倍も時間が掛かる道路は避けて、早く着いた分だけ目的のことをやりたいと考える。殊に「仕事」となれば、道路料金は安い。「時は金なり」であり、道路などの交通手段は「時間が金で買える」。矛盾することかもしれないが、既存の道路は大いに活用しなくては、ジリ貧になる。

　　東九州自動車道は竣工までどのくらいの予算が必要なのだろうか。まだ少なくとも数千億の金が必要なのであろう。そこで小生に愚かな珍案がある。御披露しよう。「宮崎には片側2斜線の新たな高速道路はもう要りません。その代わり建設予算の半分の2000〜3000億円を宮崎県に下さい。」、「もちろんその使途に国は口を挟まないで下さい。」という条件で国と交渉しなくてはならない。

　　人口は減る一方、非労働人口は増加の一方、経済の成長も先細りになる可能性が高い、などなど・・・、日本を取り巻く将来は暗雲が垂れ込めても不思議ではない。さて、宮崎はこの3000億円で何をするかだ。

  　まずは半分の1500億円で既存の道路の拡充整備を図ろう。宮崎-延岡間は10号線以外の農免道路や広域農道などを整備すれば、有料化する必要はない。片側2車線で我慢しなくてはなるまい。その分追い越しのための一部3車線や休憩所を設けなくてはなるまい。10号線の拡張には用地買収に金が掛かりすぎるから、慎重でなくてはなるまい。横断歩道の数は極力押さえ、地下道を充実せねばなるまい・・・・・などなど。
　　
　　残りの1500億円は宮崎の産業と人材育成のために使われなければならない。農業県宮崎のため、まずは100億円で貨物飛行機を購入しよう。この際、新品だ。宮崎空港に集積された宮崎野菜や鶏、鰻、宮崎牛、・・・・・を直に羽田、大阪に飛行機で運ぶ。飛行機は札幌へも飛び、戻り荷を搭載し、仙台、東京、大阪を経由して宮崎に舞い戻る。上海や台北、ソウルへも吝かではない。鉄道の整備も不可欠だ。当然、高千穂線、妻線の復活もこの基金で行う。ガソリンが一段と値上がりすれば、鉄道貨物が脚光を浴びるのは間違いあるまい。高千穂、五ヶ瀬など県北の高山涼地野菜、西都のピーマン、マンゴウ、タラの芽などが貨物で一斉に空港に集う。朝採れの食材が夜には銀座の店で都会の舌を唸らせる。「ブルー・トレイン」が姿を消した今、夜間や早朝の鉄道利用はそれほど混んでいない。JR九州との連携も必須である。高千穂線、妻線には序でに人も便乗させてもらおう。

　　「高速道路がないから救急や高度医療が受けられない。」という意見がある。はたしてそうであろうか。地元に優秀な医師がいれば高速道路は必ずしも必要ではない筈だ。優秀な医師は必ず確保できる・・・養成できる・・・出来ない筈がない。病院の建物という箱物(インフラ)に投資するのではなく、設備や人材教育・養成にカネを投入すべきである。能力のある人材には通常の2〜3倍の給料を保証すべきであり、休暇も多めに与え、年数回の学会出張や技術研修も認める。代替スタッフも重要である。そうすれば、後進は自然と立派に育つこと間違いなしである。できれば半民半官的な法人であり、2〜3交代性で24時間体制の医療が実施されるべきである。これに民間の開業医が基幹病院の設備とスタッフを自由に活用できるシステムを構築すれば、救急医への負担が軽減され、恒久的救急医療の実践が可能となる。開業医師が「体一つ」か「お気に入りの手術器械」を持参して基幹病院に出向けば良いのである。自分の病院の患者であれば尚更の事である。開業医師の「腕」や「勘」のレベル維持にも多大の貢献となり、相乗効果が生まれ育まれる。「村」単位の病院、住民の日頃のケアや病気の予防と早期発見、健康増進にもソフト的な投資法を模索しなくては、明るい未来は開けない。

　　みやざきの未来を真剣に考えたい。

　　




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<pubDate>Sun, 23 Mar 2008 18:05:50 +0900</pubDate>
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<title>イヌ、ネコの内視鏡検査の「明と暗」。</title>
<link>http://tabaru.9syu.net/column/perm/28.htm</link>
<description>　　3月12日付けの「お知らせ」で内視鏡について触れました。内視鏡は「たばる動物病院グループ」では本院のみの設置となっておりますが、これは平成12年6月に購入したものです。当時、この機種は「フジメディカル」より販売されたばかりで、西日本での購入第一号が当院でありました。内視鏡のメーカーは「オリンパス」がワールド・ワイドに有名ですが、新興の「フジ」も引けを取らず高性能です。

　　内視鏡はヒトの病院では毎日フル活動している、不可欠の医療機器であります。東京有明の「癌研」での内視鏡を受ける患者の数は、患者として行った知人からの請売りですが、日に100人は下らないだろうとのことです。宮崎県内開業の動物病院で内視鏡があるのは当院のみですが、これにはそれなりの訳があります。まず第一の理由としてイヌ、ネコには胃癌と大腸癌がヒトに比べてかなり少ないこと、次いで検査には全身麻酔が必須なことが挙げられます。検査の必要性が低いということは、購入してもPayしないことになり、動物病院としてはCTやMRI同様に買い渋る案件の一つであります。

　　このような背景があるにも拘らず、無くてはならない医療機器の一つであることに疑念の余地は有りません。特に胃内異物の摘出には威力を発揮できます。従来より、内視鏡検査や胃内異物摘出の依頼症例は時に有りましたが、夜間病院を開院してから、その頻度が増しました。病院が遠くても構わないので、出来る事なら、体に傷をつけないで欲しいという飼い主が増加したようにも考えます。以下に写真と併せて、胃内異物の摘出症例について示します。

　　注:ヒトの内視鏡検査も短時間麻酔がポプュラーです。麻酔下でないと隅々までの探索が不可能のようです。「癌研」では20分位の短い麻酔を施し、10分位の短時間で胃・大腸の検査を網羅するようです。


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<pubDate>Thu, 20 Mar 2008 14:41:56 +0900</pubDate>
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<title>お待たせ、「アメリカ留学・珍道中」。</title>
<link>http://tabaru.9syu.net/column/perm/27.htm</link>
<description>　　お約束のアメリカ留学時の写真を掲載します。これらは当時のスライドをプリントし、デジカメで接写したものです。お楽しみアレ。

  　約16年前の写真ですので悪しからず。米国の獣医大学は日本の6年制と異なり、4年制ですが、獣医学部を受験する資格の一つとして大学での基礎教科の単位取得が必要です。また当時、米国にはまだ徴兵制が存在したことから、米国での獣医1年生の平均年齢は必然的に高くなります。当時のジョージア大学の獣医1年生の平均年齢は27〜28歳と記憶しています。20歳で獣医学部に入学することは、最短コースであり、かつ極めて至難の業であります。

　　後付ですが、このコラムを書きながら、日本の今の獣医学教育や医学教育が現状で良いのか再考させられました。現在、小生の病院は宮崎大学の獣医学生数人の協力を得ています。特に夜間スタッフの一部として欠かせない存在であります。皆、向学心と使命感に燃えた若者・獣医師の「卵」であると信じております。果たして現在の獣医学生や医学生が皆そうであろうか。「生きるか、死ぬか。」、「治るのか、治らないのか。」「苦しむのか。」「いつまで生きられるのか。」・・・これらの問題と毎日向かい合わなければならない、厳しく辛い職業であります。米国を真似ろとは言わないまでも、真に学問を志す学生、社会に貢献できる人材獲得に何らかの方策を探るべきであります。「入学年齢の引き上げ」、「社会人枠の拡大」、「面接(アナウンスメント)の重視」、「推薦するに値する適正な人材とはどのようであるべきかなどの明文化」などなど・・・・・。命をあずかるこの職業が、偏差値だけでの選別に無理があるのは周知のことであります。大学が法人化されて久しいが、大学人には先ずは選抜法の改革を勘案して頂きたいものです。従来の護送船団方式ではなく、拡大された裁量権を大いに利用した個々の大学独自の発案に期待したいものです。

　　「獣医師になって沢山の動物の命を助けたい。」という人が、自分の周囲に多くいることを常に肝に銘じなければなりません。

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<pubDate>Sat, 08 Mar 2008 18:31:03 +0900</pubDate>
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<title>二十四節気・七十二候-2月(如月)-。</title>
<link>http://tabaru.9syu.net/column/perm/26.htm</link>
<description>　　このところの温暖化の中で、昔の「厳冬」を恋しがるのは小生だけではあるまい。小生は南郷村神門(現・美郷町南郷区神門)で生まれた。2月16日の神門の最低気温は氷点下6.6度と17日付けの新聞にあった。神門は宮崎県では最も寒い。台風の時季には全国のニュースにも度々登場するくらいに降雨量が多い。山間部の盆地で朝霧が深いのも有名だ。


　　約40年前に遡るが、小学生の頃、実家の下を流れる川(小丸川の支流)の浅瀬の澱みは薄く氷が張った。20センチ以上の雪も積り、臨時休校も1、2度あった。実家の冬の日照時間は2時間程しかない。正午頃に日が射し始めたかと思いきや、2時には陰になる。雪が積もると直射日光の全く当たらない日陰は1週間は消えない。当時はサッシ(sash)も無く、天井は吹き抜けで、障子と雨戸だけでは隙間風を防ぎ得ない。「大寒」の頃は最低気温が氷点下10度にもなる。中学の頃、余りにも寒いので温度計で気温を測ったのを記憶しているが、その時は、家の中と外との温度差が1度であったから、恐ろしい。暖房は自家製炭の囲炉裏だけであった。4?離れた中学校までの自転車での通学も大変であった。当時はカッター・シャツと制服だけで、靴下は常用できず、マフラーや手袋もなかった。毛糸のセーターや股引なるものなどは問題外の「贅沢物」であった。舗装されていない道路脇の田んぼで、作業前の土方のオジさん達がドラム缶で木切れを焚き「暖」を取っているときは超・幸運であった。遅刻覚悟で何も考えずお邪魔になった。正門には竹刀を持った先生がいて、何回か尻を叩かれた。冬の雨の日の教室は終日真冬日の日も有った。35年も前のことだから、栄養不良の貧乏児童の方が多く、「洟垂れ小僧」は全くをもって珍しく無かった。要は、昔の冬は「外も家の中も、そして体」も本当に寒かった。

　　
　　この2月、久々の本格的な「冬将軍」の到来をみた。いま家にある「歳時記カレンダー」を見ると、今年の「立春」は2月4日である。「立春」は24節気の一つで太陽の黄経が315°のときで、冬至と春分のちょうど中間。節分の翌日で、旧暦では「春」のはじまりである。24節気(にじゅうしせっき)とは、太陽年を太陽の黄経に従って24等分し、季節を示すのに用いる中国伝来の語である。2月(如月=きさらぎ=着更ぎ=草木の更生することの意)の24節気は「立春」とその15日後の「雨水=うすい=太陽の黄経が330度の時で、雨水が温み草木が芽吹き始める時」の2つである。　　　


　　では「七十二候=しちじゅうにこう」とは何ぞや。広辞苑によると「旧暦で、1年を72に分けた5日または6日間を一候とし、その時候の変化を示したもの。の語は四季七十二候から出た。旧暦の持っている太陽暦の要素である。」とある。一つの節気にそれぞれ3つの候がある。今年の2月の七十二候は、2月5日の「東風解凍=春風に氷が解け始める頃」、9日の「黄鶯ケンカン=ウグイスの初音が聞こえてくる頃」、14日の「魚上氷=温かくなった水の中に、魚の姿が見え始める頃」、20日の「土ミャク潤起=暖かい気候に土が潤い活気づく頃」、24日の「霞始タイ=霞が春景色を彩り始める頃」、29日の「草木萌動=陽気に誘われ草木が萌え出す頃」の計6つである。

　　
　　しかし、2月4日の「立春」とは如何にも早く、まだまだ寒い。サッシや石油ストーブなどが登場したのはつい最近のことだ。莚(むしろ)や囲炉裏、雨戸などで寒さを凌いでいた時代、1日も早く「春」を迎えたいという気持ちは想像を絶するものであったろう。暖房手段の豊富な現在においても「立春」の語を聞くと、本当の「春」が間近だと感じる。因みに莚は畳の普及する平安・鎌倉時代まで板の間や土間に敷かれていた。


  　「二十四節気」と「七十二候」は古代中国の生んだ「無形の文化的世界遺産」の一つとでも言おう。日本にも中国とは違うが「節分」、「春の七草」(2月13日=旧1月7日)、「針供養」(2月8日)という古き良き風習がある。春の「節分」は立春の前日で今年は2月3日、「鰯の頭を焼いたものを柊の枝に挿して戸口に置き、その悪臭と棘で鬼除けをする。」と「大豆を炒ってそれをまき、歳と同じか1つ多い豆を食って、無病息災を祈願する。」。小生の「節分」は、宮崎市内繁華街の行きつけの居酒屋・「いわしや」で「鰯の尾引」を喰らって、その「頭」と骨全部は骨センベイで頂く。豆は連合いが買って来てくれた「千葉産の南京豆」一袋を3日かけて、胃弱を気にしながら「夏目漱石」張りに喰らう。喰える豆の数が年々減るのが何とも淋しいことだ。ハウスで栽培した「養殖七草(せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな=カブ、すずしろ=ダイコンの七草)」には閉口だ。綾町の「手づくり・ほんものセンター」に出向き、「●金」印(完全有機農法で農薬と化学肥料を全く使用しないで栽培した野菜)の野菜を7種類見つけて粥を作る。これで邪気が祓われること請合いだ。いつもお世話になっている「手術針」には一針、一針気持ちを込めて縫合することで、供養とさせて貰おう。


　　「節気」や「候」が気になりだした歳か。先人の残した「遺産」に感謝しながら毎日精進せねば。良寛(1758-1831)の歌に「なにとなく　心さやぎていねられず　あしたは春の　はじめと思へば」とある。また日蓮(1222-1282)の「冬は必ず春となる」の名文もある。「厳冬」ほど「春爛漫」となることを信じて、精進せねば、道は拓けない。


《附》●金:土壌消毒剤・除草剤を3年以上使用しない。化学肥料・合成化学農薬の使用はゼロである。●銀:同2年以上使用しない。同20%以下の使用・同5分の1以下の防除回数。●銅:同2年以上使用しない。同20%以下の使用・同3分の1以下の防除回数。


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<pubDate>Sun, 24 Feb 2008 10:43:06 +0900</pubDate>
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<title>宮崎の農業の近未来-雑想1-。</title>
<link>http://tabaru.9syu.net/column/perm/24.htm</link>
<description>　　東国原英夫知事の超行政人的活躍で宮崎の農産物の売上が好調である。しかし、果たして宮崎県民の懐の潤い具合はどうだろうか。小生の知るところでは、宮崎産のピーマンやキュウリなどの野菜類の一部は、福岡の市場で競られた後、宮崎に舞い戻ってくるものがある。宮崎産なのに宮崎県民は他県より高い野菜を買わされていることになる。市場原理で、農協や生産者である農家がせり値が高い市場への出荷を望むのは御もっともな話ではあるが、何とも納得し難い。野菜は新鮮さが大切な売りの一つである筈だ。他県を経由してわざわざフィードバックさせられたものを買わされては叶わない。皆が掲げる「地産地消」の観点からもかなり逸れている。台風などで農家が被害を被ると補助金のかたちで税金が使われる。これまた都会が得をして田舎が貧乏くじを引かされる破目に陥る。経済連は知事のお陰でコマーシャル料を要せず、出荷手数料などの名目で相当な利益を得ているであろうことは想像に難くない。
　　

　　小生の実家は累代の折り紙付きの「水呑百姓=呑(ドン)百姓」であることは、このコラムに度々書いている。都会あるいは街の人は農家に何を望んでいるのだろうか。「食の安全と安心」や「エコロジー」、「二酸化炭素削減」、「地球温暖化」の観点からも、農家の果たす役割を重要視しない筈がなかろう。米をはじめ、野菜や椎茸などの農産物を個人やグループと契約・提携して都会に送り込む。春には蕨(ワラビ)や薇(ゼンマイ)、筍、ウド、イタドリ・・・・・などなどの山菜も喜んで賞味してもらう。都会人は宮崎の農家が「減農薬」、「有機≒減化学肥料」農法で栽培・生産した農産物を「契約購買」する。農家も都会人も距離は離れていても同じ食材を口にする。食材の収穫法や保存法もプロの教授を仰ごう。そして年に数回は宮崎の「農家詣で」に家族や友人達と来県する。「山菜採り」、「田植え」、「稲刈り」、「寒の猪」の時期はどうだろうか。里山で椎茸を&amp;#25445;ぎ取り、川では山女、鮎、鰻を獲り、川原で焼いて喰らう。面前の山々を見上げながらのバーベキューは宮崎黒毛和牛か浜ゆうポークのホルモンでいこう。自然の空気とマイナスイオンが「たれ」の主役だ。味噌や醤油、出汁や料理の好みは勿論、高血圧、糖尿病などの持病についても予め聞いておき、調理法はそれに合わせてアレンジしなくては接待心(ホスピタリティー)に欠ける。温泉は必ずしも必要ではない。谷から直に引いた水を沸かし、五右衛門か欅の風呂桶で掛流しの湯に入る。勿論露天だ。川のせせらぎと鳥の囀りが都会の喧騒を忘れさせ、マイナスイオンが血行を善くして脳ミソの汚れを祓う。などなど、小生の子供の頃の実体験だが・・・・・、これが人間の元来の生きる姿かとも思う。稲作が始まる弥生時代(紀元前4世紀or紀元前8世紀説有り)から綿々と続いている事だ。「田舎の百姓が一番旨いものを喰っている」と、田舎に帰る度に確信する。食材もだが「空気」という最高の調味料が存在する。田舎人はまずこの事を認知・認識しなければ、ここに書いた「事業」は起業化しない。これが正しく第6次産業である。太古から綿々・永々と受け継がれてきた百姓の辛抱と知恵が「日の目を見る」のだ。
　　
　　
　　この起業は待った無しだ。ターゲットは「団塊世代=昭和22〜24年生≒688万人」と「集団就職列車世代」だ。それ以降の世代だと真の「昔の味や風情」を知らないからだ。行政や経済連の果たすべき役割は何か。個々の商品をPRするのではなく、農家・農業・人・自然の全てをパッケージとして売込むべきである。経済連も「近代農業」=「ハウス農業」=「周年野菜」などといった考え方を軌道修正しなくてはならない。行政をはじめ銀行などの金融機関も農協に頼らない農家の育成・自立に本腰を入れるべきである。東国原県知事が経済連の巨大「広告塔」ではないかと思うのは小生だけであろうか。

　　つづく。</description>
<pubDate>Mon, 04 Feb 2008 00:47:40 +0900</pubDate>
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<title>日本は何が「世界一」なのか。</title>
<link>http://tabaru.9syu.net/column/perm/23.htm</link>
<description>　　平成3年9月から平成4年9月までの1年間、アメリカ合衆国ジョージア州アセンズ市の州立ジョージア大学に留学した。台風の接近で宮崎出発が当初の予定より急遽1日早くなり、大慌てで空路福岡へ行き、1泊して翌朝成田へ向かった。嫁さんと1歳11ヶ月の娘との3人旅であった。準備も儘ならぬ状況での出発で、田舎からお袋と兄嫁が清武の官舎に来て準備を手伝い、宮崎空港で見送ってくれた。

　　(あの頃は「研究野心」に燃えていた。若かった。近日、留学時の写真掲載の予定。乞う、御期待。)

　　アメリカへ行って最初に「オッ、違うぜ」と思ったことは、「アメリカ人は良く働くなー」ということだった。小生の世代は「日本人が世界中で一番の働き者、勤勉者」であると聞かされて育った。日本の大学では、診療のチョッとした合間に教授に話をしに行くと、朝から新聞の広告を見ている人間も居れば、鉢植えの花や盆栽に水をやっている人間、朝見かけたのに午前中で既に帰宅している人間など、一部の教官は様々にサボっていた。一方ジョージア大学の教官・学生は、朝から夕方まで良く働き勉強していた。10時と3時の「お茶」は無い。昼休みは自前のハンバーガーとコーク(コカ・コーラ)をもってセミナー室に行き、食事をしながら若手の研究発表を聴く。年に2、3回は教授自ら専門の最新知見を披露する。さらには学内共同研究者が集いディスカッションする、などなど。

　　小生のジョージア大学でのボスは、小生の親父と同い年で、月曜から金曜の午後5時までミッチリ働いていた。自ら犬を使って腎臓の実験をし、論文も書き、後進の指導・養成にも手を抜かない。ウイークデイは6時頃までには帰宅し、スポーツを日課とする。日本みたいに連れ合って「居酒屋徘徊」などはしない。毎週金曜の5時になると、実験棟の各部屋の鍵が「カチャ、カチャ、カチャ、・・・・・」と面白いように連続して閉まる。皆、土曜・日曜の2日間の休みを十二分に満喫するためだ。家族や彼女と小旅行、アメフトや野球観戦に赴く。そして年に2回ほど1〜2週間のバケーションを取る。2ヶ月置きぐらいにボスの家の鍵を渡され、ラブラドール4頭の世話をさせられた。

　　学生は8割以上が臨床に進むため、4年生(アメリカの獣医大学は4年制)になるとポリクリでタップリ鍛えられる。小動物の研修では夜中3時ころまで医局や図書館で勉強していた。1日数時間の睡眠しか取れない。日本の獣医大学生とは「天と地」の差だ。小生は体力も有り、ガンバリ屋だと思い込んでいたが、普通以下に見えた。思い込みとは恐ろしい。

　　「日本人は挨拶を良くして礼儀正しく、義理堅い」とも聞かされた。本当にそうなんだろうと信じ込んでいた。アメリカではキャンパスや廊下などですれ違うと、面識が無くとも「Hello!」とか「Hi!」という。面識があると「How are you?」、「How are
 you doing?」、「What's up?」などと声を掛けてくれた。東洋人(オリエンタル)は小生を見ると、必ず「Where do you come from?」と聞いてきた。アパートでも公園でも割合にこういう調子だった。

　　今や日本はどうかというと、この田舎の宮崎でも、通りすがりに会釈や挨拶でもしようものなら、変な目で見られることも往々にしてある。小学生や中学生も変なヒトだといけないから、知らないヒトには挨拶をしない様にと教育されている節もある。

　　「日本の教育レベルは世界一」も、疾うの昔の話である。「世界一犯罪の少ない国?」、「世界一安全な国?」、「世界一優秀な警察?」、「世界一国際貢献(金銭面)している国?」、・・・・・「世界一愛国心をもつ国民?」。

　　「公務員の能力も世界一、官僚の能力も世界一?」だろうか。私利私欲のために横領や収賄などの罪を犯す公僕が居る国家が世界一ではあるまい。前・防衛省事務次官は接待ゴルフ三昧で、文民の大臣と連絡が取れない。不測の緊急事態が生じていたらどうなっていたのか、想像するだけで鳥肌が立つ。

　　国民から預かった年金は、2人に1人という割合で納入記録が不明となっている。元帳は何処へいったのか。アルバイト任せでコンピューター入力を行った。人的ミスは明らかで、我々みたいな雑魚の会社でも考えられないことが、年金が主たる業務の社会保険庁で起こった。たばる動物病院は開業以来、カルテは全部チャンと保管していますぜ。カルテをはじめ重要な書類の扱いは、少なくとも勤務が半年を超えた者にしか任せませんよ。電子化しても年金ほどの重要な元帳を破棄するか?。せめて1〜2世代間は保管して置くのが常識だ。転居・結婚などで煩雑極まりなければ、制度の抜本的見直しや住民基本台帳ネットワークシステムの活用などを検討すべきであろう。社会保険庁の廃止は必然だ。今回のようなことが何度起こるか分からないし、税金がいくらあっても足りない。

　　「世界一長寿の国?」。これは「世界一の医療と社会保障(社会福祉)の整った国?」。手放しで喜べない状況に、既に追い込まれている。

　　現内閣要人の、「日本は銃所持規制の世界一厳しい国」との発言に失望した。「世界一」であれば、今まで起こらなかったことが発生していいのか、という疑問だ。政治家は自国の民を今以上に安全に幸福にと導くのが使命であろう。今後社会は益々複雑化するであろうが、政治家は万事に関して少なくとも現状維持以上の使命感を持って働いて貰わないと、冗談じゃない・・・・・。怒り心頭に発する。

　　「経済は一流、政治は三流」の言葉は死語と化したのか、最近とんと聞かない。「経済は一流、政治は星の流れ、もしくは川の流れ」ではないか。このままの政治が続くならば、経済も近い将来、三流に転落する可能性が高い。政治家の理念・理想だけは一流であるべきだ。皆、希望と誇りの持てる国民でありたいのだ。政治家の責任は国家の全ての物事に於いて重いのだ。肝に銘ぜよ。国連加盟国数も2007年1月1日現在、192カ国である。UFO論議ではないが、正確に精査・確認して「世界一」という言葉を発してもらおう。「井の中の蛙大海を知らず」では政治家の資格なし。「世界一」は重い単語だ。いい加減な場当たりの発言や失言、白紙撤回、謝罪、・・・・・には、それこそいい加減反吐(へど)が出る。政治家は確固たる理念のもと、国民のあらゆる問題の改善のために真の汗を掻いて貰わないと、許せない。


　　



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<pubDate>Fri, 21 Dec 2007 20:35:13 +0900</pubDate>
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<title>「宮崎牛」の将来は本当に大丈夫なのか。</title>
<link>http://tabaru.9syu.net/column/perm/22.htm</link>
<description>　　この度、めでたく「宮崎牛が日本一になった」と、JA宮崎経済連はじめ関係者は大喜びだ。県知事に至っては挨拶の壇上で涙を見せる有様だ。宮日では特別紙面「日本一・宮崎牛」で祝った。元旦の新聞を手に取ったような思いで一瞬驚いた。

　　紙面によると「第9回全国和牛能力共進会」が去る10月11日から4日間、鳥取県で開催され、38道府県から約500頭が参加。宮崎は種牛、肉牛の二部門九区分に28頭を出品。うち七区分で優等首席を獲得。もっも優れた種牛と肉牛に贈られる「内閣総理大臣賞」も両部門で受賞した、とのことだ。

  　平成17年度の宮崎県の肉用牛(繁殖牛、育成牛、肥育牛の総計)の出荷頭数は総数で7万8800頭で、うち県内が57.6%、県外が42.4%という。同じく子牛の出荷頭数は7万3797頭で、内県が53.4%、県外が46.6%という(2007年度)。県外の出荷先は雌の子牛では1位が三重県、2位が東京、3位が佐賀県、一方の雄子牛は1位が佐賀県、2位が熊本県、3位が岐阜県である(より良き宮崎牛づくり対策協議会・みやざきひむか学ネットHPより引用)。宮崎の肥育素牛が松坂牛や佐賀牛に”化けている”のが分かる。

　　「宮崎牛」の定義は・・・?。よく聞く言葉だが、A5、A4等級なるものがそれだ。アルファベットのABCは枝肉(屠畜後、頭や皮、内臓の一部を取り除いた骨付きの状態)の歩留まりを示す等級であり、歩留まり率が62%以上がA、58〜62%がB、58%以下がC級である。アルファベットの後に付く数字は牛脂肪交雑基準(ビーフ・マーブリング・スタンダード、No.1〜No.12の12段階)、牛肉色基準(ビーフ・カラー・スタンダード、肉の色沢、No.1〜No.7の7段階)、牛脂肪色基準(ビーフ・ファット・スタンダード、脂肪の色沢と質、No.1〜No7の7段階)、肉の締まり及びきめ(No.1〜No.5の5段階)の4項目のうち最も低い等級で示す(1〜5の5段階)。Aの5等級が最高級で、次がA4等級の枝肉である。「宮崎牛」はA5が20%、A4が80%で全出荷量の約3%と僅かだ。A3以下は「国産黒毛和種牛肉」となる。

　　小生の実家も物心ついた頃から現在まで和牛の繁殖を行っている。中学生の頃は2頭の親牛とその仔が居た。帰宅すると鎌で土手や田んぼの畦の草を刈り、ハミ(牛の餌のこと)を手カッター(後に動力カッターを購入)で切り、肥をたてる(牛舎の掃除)などの牛の世話を、殆ど毎日した。中学3年の卒業式の予行練習では、「家の手伝いを良くした」とのことで全校生徒の前で起立させられた。不意の事で何事かと思ったが、自然と涙した記憶がある。牛は当時生後10ヶ月ほどで競り市に出された。セリの1ヶ月前になると2キロの運動をした。現在中学生が牛を「散歩」させていたら、テレビものだろう。セリの前日は全身シャンプー、当日は朝5時から牛の体をきれいに拭いて、蹄(ツメ)には黒の靴墨を付けて磨いた。そして学校を休んで延岡の家畜市場まで行き、順番がくると牛を牽いて入場し、高値で売れることを祈った。当時は10万円ほどのセリ値が付いたと思う。学校の欠席理由は覚えていない。

　　前述したが「宮崎牛」は稀少食材である。黒毛和種の肥育素牛の平均セリ値は、現在50万円を超える。セリ時の体重が約300キロで、それから15〜20ヶ月肥育し、体重が約600キロで屠場行きとなる。肥育牛の生体価格が約80万円であるから、高騰している飼料や燃料、それに手間を考えると「牛肉」は本当は安い。「松阪牛」や「但馬牛」、「前沢牛」、「米沢牛」、「近江牛」などのようにブランド化し、通常の肥育牛の数倍の値が付かないと儲けは出ない。

　　ブランド化には、餌へのこだわり(稲ワラやフスマの品質、大豆粕などの給与、松阪牛はビール・山形県の「米沢牛」はリンゴを与えるという。)、川(水)など周辺の環境、牛舎の環境(床の清潔・快適性、日の射し具合、1頭当たりの飼育面積など、要はストレスを避ける=「家畜福祉」)、周囲の仲間をリードするカリスマ的農家の存在など、幾つかの要因が重要とされる。

　　このところの「船場吉兆」の食材偽称問題は、「宮崎牛」、「佐賀牛」などのブランドに追い風だ。日本屈指の代表的和食屋に出入りする美食家あるいは食通も「但馬牛」と、「佐賀牛」や「鹿児島(かごんま)牛」との識別が不可能であったのだ。和牛の鉄板焼や網焼、鋤焼も多分に登場したであろう。調理して提供する「迷店」もその差のないことを十二分に承知していたことになる。「松阪牛」も「但馬牛」も「前沢牛」(岩手県)も「近江牛」も・・・・・、「佐賀牛」、「鹿児島牛」、そして「宮崎牛」も遜色ないと言うことが周知されたことに他ならない。「宗谷黒牛」や「石垣牛」なども時を置かずして追随するであろう。

　　こう考えると、最高級和牛肉は既に完成した食材と言えなくもない。私見を言うと「肥後の褐牛」の赤身が旨いと感じる。阿蘇の自然の「青草」の匂いが何ともいい。和牛ではA3のモモ肉、とうがらし、ハラミ、ミスジ、ランプなどが所望とするところだ。「霜降り」と反対の観点からブランド化できないものかと、考えてしまう。宮崎の野山で十分の野草(ハーブ)を自由採食し、大きくそして健全に発達した絨毛をもつ第1胃(ルーメン)で消化・反芻された食物繊維が、豊富なプロトゾア(原虫)と細菌叢により良質の栄養素を生み、それが筋肉へと運ばれる。アメリカの様にはいかなくても、少なくとも北海道張りの放牧はできないものか。焼酎粕(甘藷)や大豆粕(オカラ)なども利用できよう。水も旨いし、日も射す。その気になれば、稲わらも木屑も不自由しない筈だ。生産技術も折紙付きだ。霜降りに頼った「宮崎牛」から、旨味に重点を置いた「自然宮崎牛」への転換はできないものか、など・・・など。将来の超高齢化、健康食ブーム、脱メタボ、世界的食料不足などを考えると、根本的な飼養形態の見直しが必要ではなかろうか。「温故知新」と「最新の知見で自然(昔)に帰る」ことの観念をバランス良く併せ持つことが、これから益々必要だ。当然、楽はない。

　　小学生の頃、「牛の仔市(うしのこいち)」(田舎では今でもこう呼ぶ)の帰りに親が買ってくる「みやげ」は決まってバナナであった。20本位が房となったのが、決まって2房であった。男兄弟3人で腹一杯喰った。当時バナナはその位貴重であった。牛様様の話だ。だが・・・・・、親牛と離別した仔牛は家畜市場で泣きっぱなしであった。目には泪を見た。家に帰ると1週間は親牛が泣いた。改めて、牛達にモーモーモー・・・モー烈感謝しなくては、罰が当たる。　　




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<pubDate>Fri, 14 Dec 2007 09:52:41 +0900</pubDate>
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<title>江戸にみる「美しい日本」・その4「江戸の食文化」</title>
<link>http://tabaru.9syu.net/column/perm/21.htm</link>
<description>　　今月20日、「ミシュラン」の☆が発表された。翌21日の毎日新聞の「余禄」と日経の「春秋」は揃って、日本料理が世界的権威の格付け機関から高い評価を受けたことに諸手を挙げての歓びぶりである。星の数ほどある飲食店の中から選ばれた東京の☆の数がパリの倍の数というから、判らない話ではない。
　　
　　日本人というか、江戸の人はそもそもランキングが好きな人種である。江戸期から「店」のランキングは勿論、役者や落語家、名所・旧跡、花魁、画家などの格付けを行ってきた。こちらは☆の数では無く、横綱、大関といった相撲の番付名が一般的である。実業家や金持ち(長者)にも格が付けられたのも凄い。因みに番付の本家・本元である相撲の番付は今から約250年前の宝暦年間が始まりという。
　　　　
　　さて、江戸期の人々の食事情は如何なものであったのだろうか。フランスではホテルではなく、その外で食事をする料理店を「レストラン(restaurant)」と呼んだ。このレストランが世界で最初に生まれたのがフランスで1776年という。日本では安政4年(1857年)頃長崎に、文久2年(1862年)横浜に洋食屋として開業したとされる。

　　「レストラン」の定義は如何なるものか。仮に「宿以外の処で食事をする場所」、所謂「外食産業」とした場合、江戸では明暦3年、1657年の明暦の大火直後頃に浅草寺門前に「奈良茶飯屋」が登場したのが最初だとされる。江戸での「レストラン」の出現はフランスのそれよりも何と100年以上も前の事であるから、驚きだ。
　　
　　江戸では「奈良茶飯」をはじめ、鮨、天麩羅、蕎麦、鰻など様々な屋台や店が至るところに有った。人口当たりの外食産業の店舗数は、現在の東京よりも江戸の方が上回るらしいからビックリだ。余談かも知れぬが、割り箸も「引き割り箸」として江戸で生まれた。

　　色んな人が「ミシュランの☆」について講釈を垂れている昨今だ。小生の通う居酒屋も自称・美食家が自論を宣う。何れにしても、世界が日本、特に日本料理の真髄に敬意を表したことに誇りを持とうではないか。「ミシュラン」はタイヤメーカーだ。料理評論家の集団で無いところが良い。ブリヂストンが日本国内の料理店のランキングをしたとしたら、何かが起こりそうだ。「ミシュラン」に感謝しなくてはなるまい。

　　小生の憚りながらの自論を一寸。東京の其れなりの飲食店の料理は素直に旨い。工夫と努力が垣間見える。多少は値が張っても損した気がしない。要は、宮崎の料理人に☆を吟味して頂きたい。切なる要望だ。きっと☆の価値を認識できるに違いない。

　　フランスでもワインの消費が減っているという。「ミシュラン」の☆はワインを提供する店に限っている。焼き鳥屋、居酒屋、ワインを強いて出さない鮨屋にも☆を付けて貰わないと不公平感を拭えない。☆の数で日本国内のワインの消費が増えるとも思えない。

　　新橋、有楽町のガード下の居酒屋、新宿駅西口の旧称・「小便横丁」などのスポットもオススメ。「神田藪蕎麦」、浅草寺前の「並木藪蕎麦」は最高だが、駅や地下鉄入り口の立ち喰い蕎麦屋も外せない。至る処に旨い店があるから羨ましい。そう言えば、小生も人並みの鮨好きであるが、この半年間全く鮨屋に行ってない。蕎麦も天麩羅も、鰻屋も御無沙汰中だ。当分は居酒屋のお世話になるしかない。

　　これからの季節の夜半、ほろ酔いで店を出て、☆空を見ながらテクテク、時にヨロリヨロリと歩き、暫し立止っての気道内圧が50mmHg以上の深呼吸をするのが何とも幸せだ。勿論、気分は満天(点)の☆☆☆☆☆だ。☆は☆でもほろ酔い時の冬空の☆が一番か。

　　つづく。

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<pubDate>Tue, 27 Nov 2007 09:18:43 +0900</pubDate>
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<title>屋台おでんの「ホームラン」。</title>
<link>http://tabaru.9syu.net/column/perm/19.htm</link>
<description>　　これからの季節は「おでん」だ。焼酎の友に最高だ。最初の一杯は熱燗(50度)の焼酎に限る。焼酎とともに熱い「おでん」をドスンと胃に流して落とし込まないないと物足りない。

　　「おでん」のルーツは室町時代の串刺しの味噌田楽や田楽に遡る。田楽の「でん」に接頭語の「お」がくっ付いて「おでん」と呼ばれるようになった。「稲の豊穣を願うため、祀りものとして田んぼの畦に串刺しにしてあった「蒟蒻」を、餓えた呑百姓の一人が焼いてそのままか、味噌をつけて食ったのが始まりであろう。」というのを何かで読んだ記憶がある。農具の鋤で獣肉を焼いたのが始まりという「鋤焼」に似た話である。

　　その後江戸時代になって濃い口醤油が発明され、「おでん」は煮込んで焚いた、所謂「関東焚」として今風の料理へと発展した。しかし、その後江戸では何故か「おでん」は廃れた。ところが、関西に伝播された「おでん」は鰹節や昆布で出汁をとった汁(つゆ)となって甦った。この薄い汁が「関西風おでん」である。関西では、この「関西風おでん」と関東から伝わった黒めの汁で本来の「おでん」である「関東風おでん=関東焚」の2つが存在した。そして、大正12年(1923年)の関東大震災の際、震災の炊き出しに出されたのが「関西風おでん」であり、その後関東でも白めの汁の「関西風おでん」と江戸で生まれた「関東焚」が復活され、2種のタイプが共生することとなった。

　　現在では関西風、関東風が入り乱れているのが実際であろう。宮崎では「おでん」は断然白めの汁で、「関東焚」に出会ったことは未だない。

　　小生は「おでん」も好物の一つだ。大学院時代は本郷キャンパスから自転車で数分の追分寮に住んでいた。6畳一間で2人部屋であった。相棒は横浜生まれの法学部の学生で恐ろしいくらいに大学に行かなかった。寮費は月1万円で、寝るだけの空間であった。追分寮はその後取り壊され、今はない。律儀に「寮取り壊しの案内」が来たのが、仄かに嬉しかった。

　　あの界隈でもう一つ世話になったものがある。表題の「屋台のおでん屋」の「ホームラン」である。「ホームラン」は追分寮から自転車を漕いでやっと上れるような坂を下る途中の右側の歩道の柳の木の下に陣取っていた。根津神社の境内に面しており、その向かいが日本医科大で、引っ切り無しに救急車が出入りしていた。オヤジの歳の頃は60くらい、秋田出身で鼻にかかる立派なずうずう弁を流暢に話した。若い頃は炭鉱で働いていたと言うだけあって、小柄だが腕は大きく指の先端は丸太く、節々はモッコリしているのがはっきりと分った。オヤジは荒川の辺に住居が在り、雨の日以外はほぼ毎日屋台のリヤカーを牽き、2時間かけて根津まで通っていた。夜7時ころに現場に到着すると、近くの銭湯に行って汗を流し、それからの開店であるから、概ね9時を回らないと「おでん」に有り付けない。勿論、風呂の間は屋台は開いておらず、リヤカーは路肩にただ止めてあった。当時は朝方まで研究室にいるのは普通であったから、夜中の2時、3時に自転車を走らせ「ホームラン」で5杯〜10杯くらいの日本酒の燗を頂くのが最高の贅沢であった。朝5時が閉店だった。オヤジは月に1度は客に勧められた酒で大いに酔っ払って、太っ腹になり、残りのおでんはサービスとなることがあった。もう20年以上前のことだから、当然ながら「ホームラン」は今は無い。小生が離京して2年位で根津には現れなくなった。「ホームラン」のおでんのネタは32種類あり、「爆弾」というネタが玉子を練り物で包んだものであること、茹蛸の足はおでんの汁に浸けずにそのまま和芥子で刺身風に食うのが旨いことなどをオヤジに教えてもらった。「ホームラン」では32種類のおでん全部を一晩で食った場合、御代がタダであった。10年で4、5人居たとオヤジは言っていたが、小生が通った3年間、それに挑戦している客に遭遇したことはなかった。一人で来る美人の客も何人かいた。皆、紳士と淑女で喧嘩など1度も見たことが無かった。
　　
　　旨い「おでん屋」とはどんなものだろう。先ずは、店構え(戸口の門構え)が和風であること、暖簾に控えめの赤提灯が灯るのが好ましい。店内は清潔でないといけない。店主が「おでん」好きであること。出汁が良く取れていること。ネタ(種)の種類が多く、特に魚類の練り物が豊富なこと。牛スジや軟骨(豚)があること。豆腐は芯まで程よく味が滲みて、腑抜けが出来る寸前のものを提供してくれること。里芋やジャガイモの根菜類があること。「おでん」は鍋物であるから、春菊を常備しており、汁にしゃぶしゃぶ風に潜らせ、葉が撓える寸前で提供すること。和芥子は程よく鼻を突いてくれること、時に涙も誘って貰いたいものだ。特に豆腐に合う柚子胡椒も欲しい。卵は黄身をそっくりそのまま残しても嫌な顔をされない。汁は勿論熱くないといけない。最後に汁と旨みたっぷりの残渣を完璧に飲み干すのに容易な器であること。酒燗器を兼備していること。・・・・・などなど。それに一度に5個以上のネタを注文しても聞き返さない程に記憶力が良いと言うか、商売に気合の入った店主のいる店。聞き返されると、こっちが忘れていて戸惑うからだ。「おでん」や「鮨」、「天麩羅」の類は、好みも勿論だが、その日の雰囲気や勢いで注文する処があるから、楽しいではないか。店主との掛合に気分も高揚し、酒がススム処が何ともオモシロイ。銀座8丁目の「お多幸」は味もだが、この掛合に魅かれる。

　　小生の大の好みの一品ははんぺん(半片)である。エソやタラなどの白身魚のすり身に、卵白、山芋、澱粉などを加えて練り込んだものだ。「はんぺんは片面のみが少し萎えた位が旨い」と教えてくれたのは、他でもない「ホームラン」のオヤジだ。はんぺんを食うときはいつもオヤジの「ィよー、お待ヅー」の威勢のいい声が聞こえる。

　　「おでん」はやっぱり屋台がいい。凍えながら・・・、飲んでもその凍えでなかなかに酔えない。人生を語り、また飲む。県庁の楠並木か橘公園、高松の夜間病院の近くの天満橋の上にでも屋台が並ばないものか。

　　因みに「ホームラン」は関西風。関東焚のお勧めは銀座8丁目の「お多幸」。宮崎では「味処・集(しゅう)」(宮崎市橘東2丁目、電話0985-24-0788)がオススメ(写真下)。



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<pubDate>Sat, 17 Nov 2007 12:20:32 +0900</pubDate>
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<title>秋から冬にかけての「みやざき鮨・十貫」。</title>
<link>http://tabaru.9syu.net/column/perm/17.htm</link>
<description>　　「すし」は「酸(す)し」といい、大辞泉によると、?「塩をふった魚介類を飯とともに漬け、自然発酵によって酸味を生じさせたもの。熟(な)れずし。生熟れ。」、?「酢で調味した飯に、生、または塩や酢をふりかけた魚などの具を配した料理。握りずし・散らしずし・蒸しずしなど。酢は暑さに耐えるので夏の食品とされた。」とある。

　　分り易くすると、酢・塩に漬けた、すなわち酢あるいは塩で〆た魚が「鮓」であり、魚を調理・調味して旨さを引き出したものが「鮨」である。「寿司」は当て字。

　　保存の手法が旨みをひきだしたところが、なんともオモシロイ。正しく天の恵みである。

　　握り鮨のルーツは江戸の「華屋与兵衛」までさかのぼる。華屋与兵衛(1799-
1858)が最初に握り鮨を考案し、握ったのは1820-1822年頃だと言われる。山葵を最初に使ったのも与兵衛である。華屋与兵衛の功績は国民栄誉賞、いや文化勲章ものだ。
　　
　　与兵衛は今も当時もであるが「煮ても焼いても、生でも食えないコハダ」を酢で〆て、掌の酢飯の上にのせ合わせて握る方法(調理法)を考案した。現在の握りずしの本家本元であり、当時は東京湾(江戸前)の魚介を使ったことから、「江戸前鮨」と言われるようになった。現在も東京風の握り鮨を「江戸前鮨」と呼んでいる。

　　「二束三文(薪の束)」または「二足三文(こちらは草鞋=ワラジのこと)」という言葉があるが、これは安価であまり長持しないものの喩えであろう。当時、与兵衛が握る鮨は1貫(個)250文もしたという。一文が現在の貨幣価値で25円(諸説あり。当時「四文屋」というのがあり、今風だと100円ショップや100円回転寿司に相当するから、1文=25円が覚え易い=これは小生の全くの私見)というから、当時の250文は6250円となり、ちょっとした何とか料理のフルコースに匹敵する。あまりの高値から老中・水野忠邦(1794-1851)が行った天保の改革(天保12-14年=1841-1843)の倹約令に抵触したとして、与兵衛自身投獄された。高値で贅沢だということで「お縄」であるから凄くて怖い。1824年に屋台で開店した「与兵衛鮨」は1930年(昭和5年)に閉店している。

　　江戸時代の江戸前の鮨ネタとしては、コハダ(小鰭)が代表だ。鰭はヒレまたはハタと読み、魚のひれを意味する。「鰭(はた)の広物」とは「ひれの広い魚。大きい魚。⇔鰭の狭物(さもの)」のことを言う。「小肌」とも当てる。

　　「コハダの仕事ぶりで、どんな鮨屋かわかる。」と言われるほど、鮨屋にとっても客にとっても、最重要で貴重なネタである。酢と酢飯との相性が抜群で、皮が薄いのも好まれる理由だ。塩と酢で〆た「シンコ」に至っては3〜4個を束ねてサビ無しでそのままか、「煮キリ」をチョビリとつければ昇天の気分である。この魚は鰤(ブリ)などと同じく出世魚であり、関東では10cm以下の幼魚をシンコ(新子)、10cmを超えるとコハダ、15cmになるとコノシロという。東京湾のコハダが有名で、養殖はないが、台湾や東南アジアからの輸入物あり。
　
　　江戸期のコハダ以外のネタは、アジ、イカ、タコ、ハマグリ、アナゴ、キス、サヨリなどが主でいづれも生ではなく、酢〆、あるいは加熱調味したものであった。

　　コハダと双璧の鮨ネタはマグロの赤身である。江戸期のマグロはサツマイモ、カボチャと並ぶ下下の食い物であり、それも腹身のトロは田畑の肥やしか、「目黒の秋刀魚」ではないが、長屋の庶民が焼いて食していたと言う。赤身も他と同じく生ではなく、「ヅケ」で握られていた。「ヅケ」とはマグロのサクを醤油と味醂に漬け込んむが、その調合や時間などの手法は店でかなり違う。現在では切り身を数十秒漬けて、それから握る鮨屋も珍しくない。
　　
　　小生も「鮓」・「鮨」をコヨナク愛して止まない人間の一人である。

　　みやざきは海・山の幸が豊富と言い切るヒトが多いが、果たしてどんなネタで鮨が握ってもらえるのだろうか、検証してみよう。

　　まず何といっても「コハダ」である。銀座の名店「すきやばし次郎」の小野二郎氏は九州産も使う。8月〜9月には有明海や太良町(たらちょう)産の「新子=シンコ」も堪能できる。この「コハダ」・「シンコ」をみやざきに直で仕入れなくてはならない。

　　「コハダ」以外の「光もの」であるアジ(鯵)とサバ(鯖)は、大分のお世話になろう。言わずもがな、佐賀関の「関アジ」と「関サバ」である。福岡のサバも侮れない。鹿児島の阿久根のサバも遜色なかろう。九州(西日本)人ならイワシ(鰯)はマイワシ(真鰯)ではなく、門川獲れのウルメでまいろう。

　　関サバ・関アジは直球勝負で、生で握ってもらおう。阿久根のサバは皮と2〜3mmの身が仄かに変色する程度に塩で〆、酢にさっと潜らせる。少なくとも8割の身は、鮮紅色でないと旨くない。福岡サバは仕込んで一晩じっくり寝かせたものにしよう。内海の肥ったマアジも捨てたものじゃない。一品もので「なめろう」も頂こう。門川獲れのウルメイワシは注文をしてから手開きしてもらい、下ろしショウガを載せてもらおう。

　　意外と知られてないが、寒の日向灘獲れのブリも流涎ものだ。

　　マグロは勿論、油津の本(クロ)マグロで決まりだ。トロと赤身、ヅケも頂かなくてはならない。本マグロが仕入れ困難の場合は、ミナミ(インド)マグロで文句は言えない。冷凍技術の進歩で冷凍マグロの方が旨い場合も多々あるから嬉しい。

　　赤身ももう一つ欲しいところだ。青島のもどりガツオでどうだ。。下ろしショウガと葱を載せてもらおう。

　　白身は日向灘獲れの本カワハギで、濾した肝にモミジオロシと葱をさり気無く載せてもらおう。この手の技は、小生が最も尊敬する鮨職人で、銀座8丁目・並木通りに店を構える「小笹すし」の店主・寺嶋和平氏に教えを仰ごう。

　　キスと平目の昆布〆も握って貰いたい。日南獲れのクエ(ハタ科、九州ではアラと呼ぶ場合あり。本アラはスズキ科)はサクで1〜2日寝かして旨み成分が溶出したものが良かろう。白身の極みは、ヤガラ、カサゴの生でいこうか。試しに日向灘獲れの高級魚「オコゼ」も(夏魚だが)握ってもらおう。

　　煮物は北浦獲れのアナゴ(マアナゴ)と日向のハマグリ(蛤)、特にハマグリは最高物だ。アナゴは料理人の知恵でフワフワと柔らかい、口の中で蕩けるものにしてもらおう。アナゴの「雉(きじ)焼」も一品もので拵(こしら)えてもらおう。ハマグリは日本一だから、旨くなければ料理人は失格だ。吸い物や焼いてでは甚だしくモッタイナイ。「(煮)ツメ」も超一級の味とトロミ、それに艶が必要だ。煮ハマグリには、日向の平兵衛酢を一滴垂らそうか。

　　軍艦ものは、都農のウニで十分に潮と藻の香を堪能できるであろう。海苔は大分産も有るが、これも日本一の有明海苔でないと拙(不味=まず)かろう。串間・都井岬のトビウオの「トビッコ」(ゴールデン・キャビア)も見逃せない。イクラは急速冷凍技術の進歩で日本中どこで食しても同じ味が一年中堪能できる時代だから、心配無用だ。マイナス50度での保存なのでディープ・フリィーザー(deep freezer)が欠かせない。極みは川南産の旭蟹の身に蟹みそ(肝臓と膵臓)を載せてもらおう。

　　「みやざき鮨・十貫」のネタはまだまだ沢山有りそうだ。一方で、ネタと一体の「シャリ(舎利)」はどうしよう。「アガリ」と「ガリ」も県産に拘(こだわ)らないといけない。巻ものは「レタス巻き」に習った新メニューの発案・考案にも労したいところだ。

　　検証すれば、銀座や築地でなくとも、旨くて結構安い「江戸前鮨」が食えそうであるから、考えるだけで楽しい・・・・・が・・・。無性に銀座八丁目の「小笹寿し」の鮨が喰いたくなってきた。流涎、流涎、流涎・・・。食材調達や手間(仕込み)の労苦を惜しんでは、旨い鮨は出来ない。アソビ心も必要だ。みやざきの海の幸を自在に操った鮨を堪能できる近未来を信じよう。



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<pubDate>Wed, 17 Oct 2007 12:37:38 +0900</pubDate>
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<title>江戸にみる「美しい日本」・その3(「江戸しぐさ」)</title>
<link>http://tabaru.9syu.net/column/perm/16.htm</link>
<description>　　「三方よし」とは「売り手よし、買い手よし、世間よし」のことを言う。近江商人の商売訓である。

　　その他、大阪商人にも商売訓なるものが多い。幼少の時から、日々何かにつけて、事あるごとに、周囲から口喧(やかま)しく言われたのでろう。正(まさ)しく商人道教育と言われるものである。幾つか挙げてみよう。

　　?いつまでも有ると思うな親と金、無いと思うな運と災難:
　　　「果報は寝て待て」ではトロイ(鈍く、愚か)。仄かな、
　　　チョッとしたチャンスを目敏(聡)く見逃すな。
　　?商いは飽きない:
　　　飽きることが無いように、常に種々の方策を練るべし。
　　?人の行かぬ道に花有り:未開拓の分野が狙い目だ。
　　?商は笑にして勝なり:嫌なことがあっても毎日ニッコリと。
　　?商人と屏風は曲がらねば立たぬ:低姿勢で、謙虚に。
　　?3つの掛け算:他人、親に対して「心配・迷惑・不幸」をかけるな。
　　?実印の軸はツルツルでないといけない:
　　　安易に保証人などにならぬように。3回まわして捺印のこと。
　　?親が子供に資産を残すのが「子孝行」。などなど・・・。

　　
　　江戸にも「江戸しぐさ」なるものがあり、江戸期の商人の生活哲学・商人道として、主に人伝(ひとづたい)に綿々と継承されているものだ。「商人(あきんど)しぐさ」とか「繁盛しぐさ」とも呼ばれた。

　　現在の商売人の心得として通用するばかりでなく、教育論としても注目され、次第に脚光を浴びつつある。代表的な「江戸しぐさ」を挙げてみる。

　　?「往来しぐさ」:会釈をしての[肩引き]、[傘かしげ]、それに最近の公共広告機構のCM(Commercial message)で有名となった「こぶし腰浮かせ」。
　　?「三脱の教え」:初対面の人に「年齢・職業・地位」の3つを聞かない。身分制度を意識させず、相手を思いやる、人を肩書きで判断しない、何事にも捉われないなどの理由による。
　　?「時泥棒」:断り無く相手を訪問し、又は約束の時間に遅れるなどして、相手の時間を奪うのは重い罪にあたる。時間にルーズ(loose)な「日向時間」は経済振興には以(もっ)ての外で、御法度である。
　　?「三つ心、六つ躾、九つ言葉、十二文、十五理で末決まる」:現代人は3歳ごとにこれほど成長しているだろうか?。
　　?「お心肥やし」:読み書き算盤は勿論だが、それ以上に人格形成が重要である。
　　?「打てば響く」:当意即妙の掛け合いで、初対面で相手を見抜く眼力を養う。
　　?「指きりげんまん、死んだらごめん」:げんまん(拳万)は拳固(げんこ、拳骨)で1万回打つの意。嘘をついたら「針千本飲ます」と同意で、死を覚悟での約束だ。

　　小生の実家は先祖累代、正真正銘でお墨付きの呑(どん)百姓に近い農家である。一方小生の相方の実家は商いをやっており、2年前に他界した義父には「商売」について善く教わった。相反する思考回路が必要だ。

　　商売をしていない一部の人間は、商売という言葉や商売人を訳も無く忌み嫌う性質が有る様に思う。「楽をしてぼろ儲け」の印象でも根強くあるのだろうか。

　　これからの多難の御時世、幼少より真っ当な商人道を習得することで、難局を乗り越えられることも多々あろう。「商売人の家訓」と過小に考えず、真っ当な処世の術(すべ)として活用されるべきである。事に触れて、子供に言い聞かせてもらいたい。

　　小生も何か事業を起こす場合は、「世間よし」を肝に銘じるよう心掛けるつもりだ。世間に歓(よろこ)ばれ、世の中が多少でも良くなると確信できれば、先は明るい。　　　
　　
　　つづく</description>
<pubDate>Fri, 05 Oct 2007 10:08:26 +0900</pubDate>
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<title>「水の味も身にしむ秋となり」・「山頭火」の秋の旬</title>
<link>http://tabaru.9syu.net/column/perm/15.htm</link>
<description>　　この句は漂白の自由律俳人・種田山頭火(1882-1940)が昭和5年(1930年)に宮崎を行脚(托鉢)中、飫肥で詠んだ句である。

　　山頭火は山口県佐波郡西佐波令村(現・防府市八王子)の造り酒屋(種田酒造場)の倅(せがれ)として生まれた。小生の相方は防府市の出身であり、小生も新婚時代の3年間を防府市で過ごしたから、「山頭火」には多少の興味がある。

　　山頭火は日向市東郷町出身の若山牧水(1885-1928)に似て「旅」と「酒」をこよなく愛した俳人として知られている。山頭火は言わずと知れた大酒のみであったが、酒に纏(まつ)わる句は少なく、水に関する句が多い。　

　　山頭火は本当に「酒」と「旅」を好んだのだろうか。山頭火の「其中(ごちゅう)日記」(昭和8年2月18日)に「最初の不幸は母の自殺。第二の不幸は酒癖。第四の不幸は結婚、そして父となった事」とある。不幸の連続で現実からの逃避する術(すべ)として、酒と旅を選択せざるを得なかったのか。

　　山頭火も若山牧水も実家はそれぞれ酒屋と医者で裕福であった。持って生まれた才能は天才級であったかもしれないが、私生活はハチャメチャで、現在なら2人とも生き抜くことは困難かもしれない。この2人は坊ちゃまで放蕩息子に他ならなかった。特に山頭火は多くの知人、他人に無心の限りを果たし、多大の迷惑を掛けて逝ってしまった。

　　「稔りの秋」、「天高く馬肥ゆる秋」、「食欲の秋」、「芸術の秋」、「読書の秋」、「紅葉の秋」・・・・・など秋に纏わる言葉は多い。作物も稔り、気候も良いことから、何を喰っても、何をしても清々しく気持ちの良い季節だ。

　　小生はこの時節、専ら、旨くて安いものはないかと、アンテナを張り巡らす毎日だ。時間があると夜な夜なスーパーや、休みの日は綾町の「ほんもの館」などに通う。

　　夜は行き付けの居酒屋で情報を入手し、その場に運良く旬のものがあれば、大将と協議の上料理してもらい喰らう。無ければ仕入れが出来た時に連絡をもらうことにしている。

　　これからの2〜3か月、美味くて安いものは何だろう。

    山太郎蟹はモクズ(藻屑)蟹の一種で山から海に下る途中の川で捕獲される。上海ガ二(中国モクズガ二)とは同属異種の関係にある。塩茹でか味噌煮で食すが、甲羅と大きめの脚以外は残らずイケル。蟹みそ(肝臓と膵臓)と雌の卵は特に絶品だ。
　　
　　甲羅以外の全部を擂(す)り鉢で擂りつぶして細かに砕き、布巾で濾し得た濾液(「山太郎エキス」とでも言おう)に味噌を加えて出来るのが「かにまき汁」だ。山太郎エキスが味噌に絡まれて巻かれるからこの名が付けられたのだろう。不思議なことに汁は澄ましで、フワリとした「かにまき」の食感と、鼻を擽(くすぐ)る仄(ほの)かな蟹みその香がタマラナイ。1杯(匹)何十円の素材と誰が想像できようか。料理人冥利に尽きるだろう。シテヤッタリの料理に違いない。

　　むかごの塩茹でも美味い。粘々(ねばねば)成分のムチンの歯応えが、血液をサラサラにさせてくれそうでウレシイ。皮も一緒に頂かないと損をした気分だ。食い物は動物、植物を問わず皮と実の間に旨みが宿されているから摩訶(まか)不思議だ。

　　天然の自然薯で作った「とろろ汁」も見逃せない。単に擂(す)って食うのではなく、擂った自然薯に出汁(だし)を少量づつチョロリチョロリと入れながら、擂り粉木(こぎ)で擂り混ぜる。小1時間はこの仕事をしないと本当に旨い「とろろ汁」には在り付けない。

　　小生は小・中学生の頃、23年程前に他界した祖母にこの「とろろ汁」作りを手伝わされた。擂り鉢が倒(こ)けないように両手で擂り鉢の縁を持たされた。田舎では自然薯のことを「山芋」と言うが、休みには里山の急斜面で時に掘らされた。

　　径が50cmもある擂り鉢が、正月や盆になると、「擂り鉢回(めぐ)し」という、賭けゲームの道具と化した。小銭(10円玉)を擂り鉢の内面に沿って螺旋状に転がし底にある小銭に重なったら、重なった分だけ自分の取り分になる。祖母は小柄の割に焼酎が強く、三味線と歌が上手で、賭け事も好きな、ちょっと小粋で「がばい」婆ーちゃんであった。

　　銀杏も欠かせない食材だ。殻付きのまま炒(い)って塩を塗(まぶ)すか、殻を割り少量の塩を付けて頂く。実(み)に少し皮が残るとこれが咽喉(のど)を刺激して咽喉痒(がゆ)くタマラナイ。天ぷら油で軽く素揚げても、ムッチリかつホックリとしていて歯に絡むのが良い。

　　土瓶蒸しはキッチリの翠(みどり)の銀杏が入ってないといけない。松茸は国産など望まない。薫り高く十二分にシコリ感のあるカナダ産で結構、コケコッコーと嬉しい。今年から日本の松茸に遺伝子が99%同じ北欧産の輸入物が出現したとのことだが、小生の胃袋まではまだ距離がある。その他土瓶蒸しのタネとしては、できれば鱧、サイマキ(5cmくらいの車海老)、それに三つ葉があれば至極に申し分ない。

　　芋(さといも)の子も美味い。皮付きで小指〜親指の頭くらいの大きさの「芋の子」を蒸したものか、塩茹でしたものを頂く。皮は先の方を手で半分位剥(む)いて、塩か醤油をチョビリと付け、口唇へと運ぶ。残りの皮の部分を口唇で噛むと、上手い具合に中身だけゲット(Get)できる。これも銀杏と同じで少しの皮やヒゲが残っているとニガミ(苦味)とエグミ(えがらっぽい)が味わえて、焼酎がすすむ。小芋に限らず、芽赤芋の味噌汁に焼いた青唐辛子(鷹の爪)、刺身のあしらい(つま=妻=夫)や味噌汁の具としての芋茎(ずいき)、おでんネタの芋も良い。

　　若い大根葉の漬物に新生姜の針ショウガを塗(まぶ)し、カボスを多めに絞って飯を喰らう。冷飯の茶漬けの「とも=友=共」にも最高だ。

　　最近、「焼・佐土原秋茄子」を好んで頂く。繊維がはっきりとしていて形が崩れず、都会的な上品な旨みが、従来品を凌ぐ。嫁さんに食わせて、点数を稼ぐべし。脳ミソや身体も冷えて好かろう。


　　思い付きのまま、小生の好物を並べてみた。

　　山頭火は宮崎が気に入っていたのだろうか。単に山口から遠く離れていたからだろうか。「分けいっても分けいっても青い山」は山頭火が当時熊本(1916年、妻子と共に移住)から高千穂を訪れた時(1926=大正15年6月)の句だ。山頭火の代表句が宮崎で詠まれたのが嬉しい。

　　山頭火が宿の評価やその土地の水の味を点数で記録していたことは有名な話だ。その山頭火が「水の味も身にしむ秋となり」の句を宮崎で詠んでくれたことに感謝・感激である。

　　水も秋が旬だ。料理も使う水が重要である。酒も焼酎も、米作も全て水で決まる。田舎に帰って食う漬物と自家産米の飯は頗(すこぶ)る旨い。田舎の物を宮崎に持ち帰って宮崎の水で調理しても、その味はしない。

　　「白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけり」は牧水の句だ。酒を「お茶」と称した牧水も、酒に旬を慮(おもんぱか)ったのか。

　　放蕩息子も本当は酒に飲まれてはいなかったのだ。</description>
<pubDate>Tue, 25 Sep 2007 13:29:42 +0900</pubDate>
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<title>江戸にみる「美しい日本」・その2   (江戸の人口事情)</title>
<link>http://tabaru.9syu.net/column/perm/13.htm</link>
<description>　　日本の人口の推移を推定した資料によると、縄文期は10〜30万人で推移、稲作伝来とともに約100万人が渡来した弥生時代(紀元前4もしくは8世紀)には100〜300万人、大宝律令施行(701)の8世紀には450万、9世紀には550万、10世紀には650万、鎌倉幕府が樹立(1185)された頃には700万人弱、関ヶ原の戦い(1600)の頃が1200万強、享保の改革(八代将軍吉宗の時代)の頃には3000万人を超えた。明治維新(明治元年1868前後)では3300万人、その後急増して太平洋戦争開戦時(1941年)には8390万人となった。「生めよ、増やせよ」、「一億玉砕」の言葉はこの時代のものだ。2006年には1億2693万人でピークになり、今後は減少の一途で100〜150年後には5000万人を切ると予想されている。人口を維持しようと考えるならば、危機的状況である。

　　江戸の人口はどうであったか?。

　　江戸はその昔、東(あずま=京都からみた関東一帯、あるいは鎌倉・鎌倉幕府・江戸をいう称)の国と呼ばれ、東武士は荒々しくて恐れられていたという。新撰組の近藤勇(1834-1868)や土方歳三(1835-1869)(どちらも武蔵の人)はその血を引く。

　　江戸に遷都した後の1640年頃には京都に追いつき、1695年には85万人で日本一となった。18世紀(1700年)になると100万人を超え、1837年にはロンドン、パリを追い抜き128万人で世界一となった。居住地は現在の東京(1868年に改称)都より狭いが、人口密度は現在の約3倍であったという。八百八町、延いては7000町として栄えた。

　　江戸の人口は、江戸城や大火後の普請で、大工などの労働力が不足した為、田舎から人々が上京(流入)して増加した。江戸や京都、大阪などの人口密集地の出生率は晩婚などの理由で田舎に比べて低く、反対に疫病(伝染病)が流行ると急速に伝播するため江戸の死亡率は高かった。そのため、長男以外の余剰の「田舎人」は奉公人と称され、都へ流れた。江戸の人口増加は、現在東京の人口が増えているのと同様に、「田舎人」の貢献によった。当時、実質は「口減らし」で有ったのかもしれないが、江戸が発展したのは「田舎人」のお陰であったことは、紛れも無い事実である。

　　現在の日本と似かよった現象が見られたことになる。小学・中学・高校、場合によっては大学まで、税金を使って大切に養育した地方の若者が、次々に東京へと流れる。東京をはじめ大都会の労働力となり、それが消費を拡大させ、いわゆる「東京のひとり勝ち」の事態を生んでいる。

　　「ふるさと納税」論議も良いが、国(国会議員と官僚)や都知事は、地方に対して優しい言葉はもとより、「感謝の念」を表して貰いたい。至極当然ながら「労働力提供税」なるもので、地方に還元して貰いたい。労働力なくして、経済など有り得ないし、語れない。「良いとこ取(ど)り」の大都会は許せない。

　　東国原英夫氏は東京生活が30年を超えて、県知事に就任した。小生は以前より、地方の知事や市町村の首長は地元の生抜きでは問題があると思っていた。都会人が地方に何を欲しているか、直感的に見抜けないし、読めないからだ。奇策妙案(奇抜なアイデアや名案)を講じることなど先ず不可能だ。
　　
　　江戸時代に限らず、都会で諸々のノウハウ(know-how)を習得した「地方人」は、頃合を見てU-ターンし、地方をもりたて活気づけた。昭和の故・岩切章太郎氏もその一人であろう。

　　県庁などの行政機関は、都会や国外で生活、活躍している宮崎県出身者に眼を光らせ、中途採用枠を設けるなど、人的財産の確保に吝(やぶさ)かであってはならない。

　　意味は多少異なるが、「蝶よ花よ・・・・・」と育てられた「田舎」の若者が、都会で沢山の蜜を吸い、肥しを貰って大輪を咲かせ、脂の乗った時に帰県することを切に願う一人である。　　　　                        

　　つづく　　                                                                      </description>
<pubDate>Mon, 17 Sep 2007 10:48:01 +0900</pubDate>
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<title>九州の最後の巨匠「高山辰雄」画伯逝く。</title>
<link>http://tabaru.9syu.net/column/perm/14.htm</link>
<description>　　昨日9月14日、九州出身で画界の巨匠の一人が、また逝った。日本画壇の重鎮・高山辰雄(1912-2007)である。

　　九州は画家の宝庫であった。黒田清輝(1866-1924、「舞妓」=重文、東京国立博物館蔵)は鹿児島出身の洋画家で、法学研究のため渡仏(9年間)するが、印象派(外光派的技法)のコラン(1850-1916)に影響を受け、画家に転身した。黒田清輝と、裸婦がモティーフ(motif)の岡田三郎助(1869-1939、佐賀市、「水浴の前」=ブリヂストン美術館蔵)、東京美術学校校長の和田英作(1874-1959、鹿児島、「渡頭の夕暮」=東京芸術大学大学美術館蔵)の3人を称して「九州の三田(さんでん)」という。

　　他に洋画では「黒扇」(重文、ブリヂストン美術館蔵)の藤島武二(1867-1943、鹿児島)、海老原喜之助(1904-1970、鹿児島)、児島善三郎(1893-1962、福岡)、古賀春江(1895-1933、久留米)、東郷青児(1897-1978、鹿児島)、田崎広助(1898-1984、福岡)、牛島憲之(1900-1997、熊本)、鴨居玲(1928-1985、長崎)など、有名どころがずらりだ。

　　それに日本洋画界の最高峰はなんと言っても久留米出身の青木繁と坂本繁二郎である。2人は同級生で親交が深かった。天才・青木繁(1882-1911、「わだつみのいろこの宮」と「海の幸」=重文=ブリヂストン美術館蔵)は、世間にその才能を認められることなく夭折した。対照的に晩成の繁二郎(1882-1969、「放牧三馬」=同蔵)は長命で名声を得た。

　　繁二郎が久留米の小学校で図画教師をしていた頃の教え子の一人が、(株)ブリヂストンタイヤの創業者・故石橋正二郎(1889-1976)であり、繁二郎は地下足袋からタイヤで財を成した正二郎に大天才・青木の絵画収集の工夫をもちかけた。繁二郎はデッサン力や創造性など青木の秀でた能力を最もよく知る人物の一人であった。久留米市と東京駅前のブリヂストン美術館には青木をはじめ錚々(そうそう)たる画家、巨匠の収蔵がある。当然の成り行きか、九州出身の洋画家の作品が多い。正二郎は竹橋の東京国立近代美術館を建造し寄贈した。

　　高山辰雄は大分市出身の日本画家である。東山魁夷(1908-1999)、杉山寧(1909-1993、三島由紀夫の義父)と並んで「日展の三山(さんざん)」と称された。最後の「一山」が逝ったことになる。加山又造(1927-2004)、平山郁夫(1930-)を加えた「現代日本画の五山」も健在は平山画伯1人である。「五山」とも文化勲章の受章画家であり、それぞれに個性溢れる画風を産み出した。

　　「五山」とも風景画や静物画、人物画など、そのモティーフは多彩だが、魁夷は湖や閑林の「馬」が佳く、杉山と加山の「猫」は筆舌に尽し難く、平山の「駱駝」はワールドワイドに有名だ。辰雄は幽玄の境地の「犬」がなんとも好い。動物をモティーフにしたものはどれも人気だ。

　　乳白色の肌の「裸婦」と「猫」で有名な、世界で最も良く知られた日本人画家(芸術家)のレオナルド・藤田(1886-1968、仏に帰化)も、御多分に洩れず、ルーブル美術館で「モナ-リザ」を模写した。「このモナ-リザは贋作である。」と言ったという。理由を聞くと「ダ・ヴィンチが俺より下手である筈が無い。」と応えたというから、凄い。

　　陶芸家・北大路魯山人(1883-1959)に師匠は居なかった。先人の「名品」を数多く収集し、眺めては愛(め)で・語らい、「名品」を師匠とし、独自の作風を創造した。

　　我が宮崎県は画家をはじめ芸術家の輩出が少ない。洋画では佐土原藩最後の藩主の子息で婦人画の中沢弘光(1874-1964)、日本前衛美術の先駆者で名高い瑛九(1911-1960、本名=杉田秀夫)、藤田の下で戦争画収集に奔走した山田新一(1899-1991、西欧の婦人像や風景)、日本画では山内多門(1878-1932、橋本雅邦・川合玉堂に師事、帝展の審査員、「山村秋色」)、美人画の益田玉城(1881-1955)がいる。

　　宮崎県立美術館は、美術を愛する子供や美術に対する潜在能力の高い子供たちについて、美術館を開放するばかりか、所蔵品に関しては模写を許すくらいの度量が要求されよう。子供の時期に最高のものに触れなければ、世界に通用する感性は育たない。

　　高山辰雄は幼少の頃から豊後竹田生まれの文人画家・田能村竹田(1777-1835)の書画に親しんで育った。文化勲章受章の日本画家・福田平八郎(1892-1974)も大分市生まれだ。どことなく二人の画風は似ているようにも思える。
　　
　　「人間とは何か?」を問い続けた巨匠は、終(つい)には答えを見出したのだろうか。その作品は、森羅万象が荘厳であり、人間に限らず全ての生命の深遠なることを表現、教示してくれた。

　　偉大な”求道者”に合掌。

　</description>
<pubDate>Sat, 15 Sep 2007 11:07:33 +0900</pubDate>
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<title>江戸にみる「美しい日本」・その1(教育事情)</title>
<link>http://tabaru.9syu.net/column/perm/12.htm</link>
<description>　　小生は日頃より、歴史に多少の興味があり、年代を記憶することが楽しみの一つだ。周知の如く、日本国が最も平和・平穏で、かつ文化が創造・醸成された、絢爛の時代は江戸時代(1600または1603-1867)だ。江戸時代について暇を見つけては調べると、殺伐とした現代日本が今後目標とする国造りの見本として、見習うべき点が多々あることに気づく。幾つか挙げてみよう。

　　「芭蕉翁ぼちゃんというと立留り」。

　　現代人に人気の俳諧ベスト2は、正岡子規(1867-1902)の「柿くえば鐘が鳴るなり法隆寺」と、松尾芭蕉(1644-1694)の「古池や蛙飛こむ水のをと」という。芭蕉はこの句で当時の庶民に「音」という新しい感覚表現を教えた。

　　芭蕉爺(じい)さんが、深川の「芭蕉庵」辺りを散策でもしていたのであろう。芭蕉を知る者が擦れ違い様に、蛙が池に飛び込んだ時の水の音・「ぼちゃん」を口で真似た瞬間、耳がまだ達者であったろう芭蕉はそこらに蛙が居るものと思い、歩くのを止めて辺りを見回したのだろうが・・・・・。この川柳には当時の「ゆったり」かつ「ほのぼの」とした光景の他に、芭蕉に対する畏敬の念が垣間見えるから、不思議で面白い。

　　芭蕉爺さんが、江戸時代に中国由来の品種から作出した「狆」(チン)を連れて散歩していたら、これまた「珍事」でもあるまい。現代には無い「ゆたァー」とした時の流れが羨ましい。


　　次に「寺小屋」(手習所=てならいどころ)である。

　　江戸の「寺小屋」は全国津々浦々に、推定で5万箇所以上あったという。現在の小学校数は2万3000校だそうだ。規模は数名〜数百名、2階建てで数棟もあるものまでまちまちであった。入学年齢やその時期、在学期間、指導方法や教科・・・・・登校時間など師匠によりまちまちであったとされる。多くは自習形式で時に個別や一斉指導があった。算盤(そろばん)や謡曲、裁縫、漢籍(中国の書物。中国人が漢文で書いた書物)なども教えたというから、現代にも無い「総合塾」であった。

　　興味深いのは、先輩が後輩に教えたり、一般の大人、例えば旅館(旅籠屋=はたごや)の女将や大工などが仕事上で必要に迫られた場合、勉強(特に読み書き・勘定)したければ自由に門戸が解放されていたというから、凄くて驚きだ。だから、江戸期の日本人の識字率は世界一であった。

　　師匠との関係は親子以上で、師匠は地域の最も尊敬された職業であった。今でいう地域の「子育てネットワーク」も自然と整っていた。人々の縦なり横なりの繋がりも自然と密で強かったのだ。

　　意外や意外、教育法は当時フランスなどヨーロッパのスパルタ方式ではなく、トクトクと説き教える教育法であった。これらを裏付ける絵・資料も多く残されている。
　
　　小生が小学生の頃、夏休みは毎日、朝の6時半から部落単位の集合ラジオ体操があった。ラジオの電波が悪い日はテープを流していた。早寝早起きだ。安井息軒(清武町出身、1799-1876)の3計の訓(おし)え・・・1日の計は朝(あした)に有りだ。10日に1回は部落(小字)の寺小屋風の公民館(山口県萩市の松下村塾=1856年=安政3年開塾と同等位の古びた建物だった)で、小学1年生から中学3年生全員が集い、長い木机を並べて、午前中いっぱい勉強を教え合った。床は勿論、板に茣蓙(ござ)敷きであった。「夏休みの友」も先輩に習って片付けた。現在のような塾も無く、親は両方とも稼ぐのに精一杯で、子供の勉強の手伝いなどトンでもない時代だった。

　　未だ嘗て、小生の生まれ育った村には塾が存在しない。否、否、江戸時代には5万分の1の立派な「寺小屋」なる「塾」が存在したのだ。そうに違いあるまい。あの小学校時代を時に懐かしく思う。教わった先輩達の御健勝を祈ろう。

　　ここで実際にあった笑い話を一つ披露しよう(小生の身近な実在の人の話なので、本邦初公開)。今の国会議員の中には、故・松下幸之助(1894-1989)氏が開いた「松下政経塾」の卒塾者が何人かはいる。ある東京の青年が、萩市観光で吉田松陰(1830-1859、安政の大獄で処刑)開塾の「松下村塾」を見て、その貧弱さ・みすぼらしさに、「松下幸之助もドケチで大したことねェなー」と割合に大きな声を発したらしい。物事は見た目では無い。培われ、育成される精神(魂)が重要で、決して見て呉れ(外見)ではない。

　　                                                                   つづく。
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<pubDate>Tue, 11 Sep 2007 17:22:31 +0900</pubDate>
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