院長コラム

最近の記事

お待たせ、「アメリカ留学・珍道中」。

  お約束のアメリカ留学時の写真を掲載します。これらは当時のスライドをプリントし、デジカメで接写したものです。お楽しみアレ。

 約16年前の写真ですので悪しからず。米国の獣医大学は日本の6年制と異なり、4年制ですが、獣医学部を受験する資格の一つとして大学での基礎教科の単位取得が必要です。また当時、米国にはまだ徴兵制が存在したことから、米国での獣医1年生の平均年齢は必然的に高くなります。当時のジョージア大学の獣医1年生の平均年齢は27〜28歳と記憶しています。20歳で獣医学部に入学することは、最短コースであり、かつ極めて至難の業であります。

  後付ですが、このコラムを書きながら、日本の今の獣医学教育や医学教育が現状で良いのか再考させられました。現在、小生の病院は宮崎大学の獣医学生数人の協力を得ています。特に夜間スタッフの一部として欠かせない存在であります。皆、向学心と使命感に燃えた若者・獣医師の「卵」であると信じております。果たして現在の獣医学生や医学生が皆そうであろうか。「生きるか、死ぬか。」、「治るのか、治らないのか。」「苦しむのか。」「いつまで生きられるのか。」・・・これらの問題と毎日向かい合わなければならない、厳しく辛い職業であります。米国を真似ろとは言わないまでも、真に学問を志す学生、社会に貢献できる人材獲得に何らかの方策を探るべきであります。「入学年齢の引き上げ」、「社会人枠の拡大」、「面接(アナウンスメント)の重視」、「推薦するに値する適正な人材とはどのようであるべきかなどの明文化」などなど・・・・・。命をあずかるこの職業が、偏差値だけでの選別に無理があるのは周知のことであります。大学が法人化されて久しいが、大学人には先ずは選抜法の改革を勘案して頂きたいものです。従来の護送船団方式ではなく、拡大された裁量権を大いに利用した個々の大学独自の発案に期待したいものです。

  「獣医師になって沢山の動物の命を助けたい。」という人が、自分の周囲に多くいることを常に肝に銘じなければなりません。

固定リンク | 2008年03月08日【27】

二十四節気・七十二候-2月(如月)-。

  このところの温暖化の中で、昔の「厳冬」を恋しがるのは小生だけではあるまい。小生は南郷村神門(現・美郷町南郷区神門)で生まれた。2月16日の神門の最低気温は氷点下6.6度と17日付けの新聞にあった。神門は宮崎県では最も寒い。台風の時季には全国のニュースにも度々登場するくらいに降雨量が多い。山間部の盆地で朝霧が深いのも有名だ。


  約40年前に遡るが、小学生の頃、実家の下を流れる川(小丸川の支流)の浅瀬の澱みは薄く氷が張った。20センチ以上の雪も積り、臨時休校も1、2度あった。実家の冬の日照時間は2時間程しかない。正午頃に日が射し始めたかと思いきや、2時には陰になる。雪が積もると直射日光の全く当たらない日陰は1週間は消えない。当時はサッシ(sash)も無く、天井は吹き抜けで、障子と雨戸だけでは隙間風を防ぎ得ない。「大寒」の頃は最低気温が氷点下10度にもなる。中学の頃、余りにも寒いので温度計で気温を測ったのを記憶しているが、その時は、家の中と外との温度差が1度であったから、恐ろしい。暖房は自家製炭の囲炉裏だけであった。4僧イ譴臣羈惺擦泙任亮転車での通学も大変であった。当時はカッター・シャツと制服だけで、靴下は常用できず、マフラーや手袋もなかった。毛糸のセーターや股引なるものなどは問題外の「贅沢物」であった。舗装されていない道路脇の田んぼで、作業前の土方のオジさん達がドラム缶で木切れを焚き「暖」を取っているときは超・幸運であった。遅刻覚悟で何も考えずお邪魔になった。正門には竹刀を持った先生がいて、何回か尻を叩かれた。冬の雨の日の教室は終日真冬日の日も有った。35年も前のことだから、栄養不良の貧乏児童の方が多く、「洟垂れ小僧」は全くをもって珍しく無かった。要は、昔の冬は「外も家の中も、そして体」も本当に寒かった。

  
  この2月、久々の本格的な「冬将軍」の到来をみた。いま家にある「歳時記カレンダー」を見ると、今年の「立春」は2月4日である。「立春」は24節気の一つで太陽の黄経が315°のときで、冬至と春分のちょうど中間。節分の翌日で、旧暦では「春」のはじまりである。24節気(にじゅうしせっき)とは、太陽年を太陽の黄経に従って24等分し、季節を示すのに用いる中国伝来の語である。2月(如月=きさらぎ=着更ぎ=草木の更生することの意)の24節気は「立春」とその15日後の「雨水=うすい=太陽の黄経が330度の時で、雨水が温み草木が芽吹き始める時」の2つである。   


  では「七十二候=しちじゅうにこう」とは何ぞや。広辞苑によると「旧暦で、1年を72に分けた5日または6日間を一候とし、その時候の変化を示したもの。<季節>の語は四季七十二候から出た。旧暦の持っている太陽暦の要素である。」とある。一つの節気にそれぞれ3つの候がある。今年の2月の七十二候は、2月5日の「東風解凍=春風に氷が解け始める頃」、9日の「黄鶯ケンカン=ウグイスの初音が聞こえてくる頃」、14日の「魚上氷=温かくなった水の中に、魚の姿が見え始める頃」、20日の「土ミャク潤起=暖かい気候に土が潤い活気づく頃」、24日の「霞始タイ=霞が春景色を彩り始める頃」、29日の「草木萌動=陽気に誘われ草木が萌え出す頃」の計6つである。

  
  しかし、2月4日の「立春」とは如何にも早く、まだまだ寒い。サッシや石油ストーブなどが登場したのはつい最近のことだ。莚(むしろ)や囲炉裏、雨戸などで寒さを凌いでいた時代、1日も早く「春」を迎えたいという気持ちは想像を絶するものであったろう。暖房手段の豊富な現在においても「立春」の語を聞くと、本当の「春」が間近だと感じる。因みに莚は畳の普及する平安・鎌倉時代まで板の間や土間に敷かれていた。


 「二十四節気」と「七十二候」は古代中国の生んだ「無形の文化的世界遺産」の一つとでも言おう。日本にも中国とは違うが「節分」、「春の七草」(2月13日=旧1月7日)、「針供養」(2月8日)という古き良き風習がある。春の「節分」は立春の前日で今年は2月3日、「鰯の頭を焼いたものを柊の枝に挿して戸口に置き、その悪臭と棘で鬼除けをする。」と「大豆を炒ってそれをまき、歳と同じか1つ多い豆を食って、無病息災を祈願する。」。小生の「節分」は、宮崎市内繁華街の行きつけの居酒屋・「いわしや」で「鰯の尾引」を喰らって、その「頭」と骨全部は骨センベイで頂く。豆は連合いが買って来てくれた「千葉産の南京豆」一袋を3日かけて、胃弱を気にしながら「夏目漱石」張りに喰らう。喰える豆の数が年々減るのが何とも淋しいことだ。ハウスで栽培した「養殖七草(せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな=カブ、すずしろ=ダイコンの七草)」には閉口だ。綾町の「手づくり・ほんものセンター」に出向き、「●金」印(完全有機農法で農薬と化学肥料を全く使用しないで栽培した野菜)の野菜を7種類見つけて粥を作る。これで邪気が祓われること請合いだ。いつもお世話になっている「手術針」には一針、一針気持ちを込めて縫合することで、供養とさせて貰おう。


  「節気」や「候」が気になりだした歳か。先人の残した「遺産」に感謝しながら毎日精進せねば。良寛(1758-1831)の歌に「なにとなく 心さやぎていねられず あしたは春の はじめと思へば」とある。また日蓮(1222-1282)の「冬は必ず春となる」の名文もある。「厳冬」ほど「春爛漫」となることを信じて、精進せねば、道は拓けない。


《附》●金:土壌消毒剤・除草剤を3年以上使用しない。化学肥料・合成化学農薬の使用はゼロである。●銀:同2年以上使用しない。同20%以下の使用・同5分の1以下の防除回数。●銅:同2年以上使用しない。同20%以下の使用・同3分の1以下の防除回数。


固定リンク | 2008年02月24日【26】

宮崎の農業の近未来-雑想1-。

  東国原英夫知事の超行政人的活躍で宮崎の農産物の売上が好調である。しかし、果たして宮崎県民の懐の潤い具合はどうだろうか。小生の知るところでは、宮崎産のピーマンやキュウリなどの野菜類の一部は、福岡の市場で競られた後、宮崎に舞い戻ってくるものがある。宮崎産なのに宮崎県民は他県より高い野菜を買わされていることになる。市場原理で、農協や生産者である農家がせり値が高い市場への出荷を望むのは御もっともな話ではあるが、何とも納得し難い。野菜は新鮮さが大切な売りの一つである筈だ。他県を経由してわざわざフィードバックさせられたものを買わされては叶わない。皆が掲げる「地産地消」の観点からもかなり逸れている。台風などで農家が被害を被ると補助金のかたちで税金が使われる。これまた都会が得をして田舎が貧乏くじを引かされる破目に陥る。経済連は知事のお陰でコマーシャル料を要せず、出荷手数料などの名目で相当な利益を得ているであろうことは想像に難くない。
  

  小生の実家は累代の折り紙付きの「水呑百姓=呑(ドン)百姓」であることは、このコラムに度々書いている。都会あるいは街の人は農家に何を望んでいるのだろうか。「食の安全と安心」や「エコロジー」、「二酸化炭素削減」、「地球温暖化」の観点からも、農家の果たす役割を重要視しない筈がなかろう。米をはじめ、野菜や椎茸などの農産物を個人やグループと契約・提携して都会に送り込む。春には蕨(ワラビ)や薇(ゼンマイ)、筍、ウド、イタドリ・・・・・などなどの山菜も喜んで賞味してもらう。都会人は宮崎の農家が「減農薬」、「有機≒減化学肥料」農法で栽培・生産した農産物を「契約購買」する。農家も都会人も距離は離れていても同じ食材を口にする。食材の収穫法や保存法もプロの教授を仰ごう。そして年に数回は宮崎の「農家詣で」に家族や友人達と来県する。「山菜採り」、「田植え」、「稲刈り」、「寒の猪」の時期はどうだろうか。里山で椎茸を捥ぎ取り、川では山女、鮎、鰻を獲り、川原で焼いて喰らう。面前の山々を見上げながらのバーベキューは宮崎黒毛和牛か浜ゆうポークのホルモンでいこう。自然の空気とマイナスイオンが「たれ」の主役だ。味噌や醤油、出汁や料理の好みは勿論、高血圧、糖尿病などの持病についても予め聞いておき、調理法はそれに合わせてアレンジしなくては接待心(ホスピタリティー)に欠ける。温泉は必ずしも必要ではない。谷から直に引いた水を沸かし、五右衛門か欅の風呂桶で掛流しの湯に入る。勿論露天だ。川のせせらぎと鳥の囀りが都会の喧騒を忘れさせ、マイナスイオンが血行を善くして脳ミソの汚れを祓う。などなど、小生の子供の頃の実体験だが・・・・・、これが人間の元来の生きる姿かとも思う。稲作が始まる弥生時代(紀元前4世紀or紀元前8世紀説有り)から綿々と続いている事だ。「田舎の百姓が一番旨いものを喰っている」と、田舎に帰る度に確信する。食材もだが「空気」という最高の調味料が存在する。田舎人はまずこの事を認知・認識しなければ、ここに書いた「事業」は起業化しない。これが正しく第6次産業である。太古から綿々・永々と受け継がれてきた百姓の辛抱と知恵が「日の目を見る」のだ。
  
  
  この起業は待った無しだ。ターゲットは「団塊世代=昭和22〜24年生≒688万人」と「集団就職列車世代」だ。それ以降の世代だと真の「昔の味や風情」を知らないからだ。行政や経済連の果たすべき役割は何か。個々の商品をPRするのではなく、農家・農業・人・自然の全てをパッケージとして売込むべきである。経済連も「近代農業」=「ハウス農業」=「周年野菜」などといった考え方を軌道修正しなくてはならない。行政をはじめ銀行などの金融機関も農協に頼らない農家の育成・自立に本腰を入れるべきである。東国原県知事が経済連の巨大「広告塔」ではないかと思うのは小生だけであろうか。

  つづく。

固定リンク | 2008年02月04日【24】

[1]    «    64  |  65  |  66  |  67  |  68  |  69  |  70    »    [74]

- 管理用 -

最近の記事

月別記事