院長コラム

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江戸にみる「美しい日本」・その4「江戸の食文化」

  今月20日、「ミシュラン」の☆が発表された。翌21日の毎日新聞の「余禄」と日経の「春秋」は揃って、日本料理が世界的権威の格付け機関から高い評価を受けたことに諸手を挙げての歓びぶりである。星の数ほどある飲食店の中から選ばれた東京の☆の数がパリの倍の数というから、判らない話ではない。
  
  日本人というか、江戸の人はそもそもランキングが好きな人種である。江戸期から「店」のランキングは勿論、役者や落語家、名所・旧跡、花魁、画家などの格付けを行ってきた。こちらは☆の数では無く、横綱、大関といった相撲の番付名が一般的である。実業家や金持ち(長者)にも格が付けられたのも凄い。因みに番付の本家・本元である相撲の番付は今から約250年前の宝暦年間が始まりという。
    
  さて、江戸期の人々の食事情は如何なものであったのだろうか。フランスではホテルではなく、その外で食事をする料理店を「レストラン(restaurant)」と呼んだ。このレストランが世界で最初に生まれたのがフランスで1776年という。日本では安政4年(1857年)頃長崎に、文久2年(1862年)横浜に洋食屋として開業したとされる。

  「レストラン」の定義は如何なるものか。仮に「宿以外の処で食事をする場所」、所謂「外食産業」とした場合、江戸では明暦3年、1657年の明暦の大火直後頃に浅草寺門前に「奈良茶飯屋」が登場したのが最初だとされる。江戸での「レストラン」の出現はフランスのそれよりも何と100年以上も前の事であるから、驚きだ。
  
  江戸では「奈良茶飯」をはじめ、鮨、天麩羅、蕎麦、鰻など様々な屋台や店が至るところに有った。人口当たりの外食産業の店舗数は、現在の東京よりも江戸の方が上回るらしいからビックリだ。余談かも知れぬが、割り箸も「引き割り箸」として江戸で生まれた。

  色んな人が「ミシュランの☆」について講釈を垂れている昨今だ。小生の通う居酒屋も自称・美食家が自論を宣う。何れにしても、世界が日本、特に日本料理の真髄に敬意を表したことに誇りを持とうではないか。「ミシュラン」はタイヤメーカーだ。料理評論家の集団で無いところが良い。ブリヂストンが日本国内の料理店のランキングをしたとしたら、何かが起こりそうだ。「ミシュラン」に感謝しなくてはなるまい。

  小生の憚りながらの自論を一寸。東京の其れなりの飲食店の料理は素直に旨い。工夫と努力が垣間見える。多少は値が張っても損した気がしない。要は、宮崎の料理人に☆を吟味して頂きたい。切なる要望だ。きっと☆の価値を認識できるに違いない。

  フランスでもワインの消費が減っているという。「ミシュラン」の☆はワインを提供する店に限っている。焼き鳥屋、居酒屋、ワインを強いて出さない鮨屋にも☆を付けて貰わないと不公平感を拭えない。☆の数で日本国内のワインの消費が増えるとも思えない。

  新橋、有楽町のガード下の居酒屋、新宿駅西口の旧称・「小便横丁」などのスポットもオススメ。「神田藪蕎麦」、浅草寺前の「並木藪蕎麦」は最高だが、駅や地下鉄入り口の立ち喰い蕎麦屋も外せない。至る処に旨い店があるから羨ましい。そう言えば、小生も人並みの鮨好きであるが、この半年間全く鮨屋に行ってない。蕎麦も天麩羅も、鰻屋も御無沙汰中だ。当分は居酒屋のお世話になるしかない。

  これからの季節の夜半、ほろ酔いで店を出て、☆空を見ながらテクテク、時にヨロリヨロリと歩き、暫し立止っての気道内圧が50mmHg以上の深呼吸をするのが何とも幸せだ。勿論、気分は満天(点)の☆☆☆☆☆だ。☆は☆でもほろ酔い時の冬空の☆が一番か。

  つづく。

固定リンク | 2007年11月27日【21】

屋台おでんの「ホームラン」。

  これからの季節は「おでん」だ。焼酎の友に最高だ。最初の一杯は熱燗(50度)の焼酎に限る。焼酎とともに熱い「おでん」をドスンと胃に流して落とし込まないないと物足りない。

  「おでん」のルーツは室町時代の串刺しの味噌田楽や田楽に遡る。田楽の「でん」に接頭語の「お」がくっ付いて「おでん」と呼ばれるようになった。「稲の豊穣を願うため、祀りものとして田んぼの畦に串刺しにしてあった「蒟蒻」を、餓えた呑百姓の一人が焼いてそのままか、味噌をつけて食ったのが始まりであろう。」というのを何かで読んだ記憶がある。農具の鋤で獣肉を焼いたのが始まりという「鋤焼」に似た話である。

  その後江戸時代になって濃い口醤油が発明され、「おでん」は煮込んで焚いた、所謂「関東焚」として今風の料理へと発展した。しかし、その後江戸では何故か「おでん」は廃れた。ところが、関西に伝播された「おでん」は鰹節や昆布で出汁をとった汁(つゆ)となって甦った。この薄い汁が「関西風おでん」である。関西では、この「関西風おでん」と関東から伝わった黒めの汁で本来の「おでん」である「関東風おでん=関東焚」の2つが存在した。そして、大正12年(1923年)の関東大震災の際、震災の炊き出しに出されたのが「関西風おでん」であり、その後関東でも白めの汁の「関西風おでん」と江戸で生まれた「関東焚」が復活され、2種のタイプが共生することとなった。

  現在では関西風、関東風が入り乱れているのが実際であろう。宮崎では「おでん」は断然白めの汁で、「関東焚」に出会ったことは未だない。

  小生は「おでん」も好物の一つだ。大学院時代は本郷キャンパスから自転車で数分の追分寮に住んでいた。6畳一間で2人部屋であった。相棒は横浜生まれの法学部の学生で恐ろしいくらいに大学に行かなかった。寮費は月1万円で、寝るだけの空間であった。追分寮はその後取り壊され、今はない。律儀に「寮取り壊しの案内」が来たのが、仄かに嬉しかった。

  あの界隈でもう一つ世話になったものがある。表題の「屋台のおでん屋」の「ホームラン」である。「ホームラン」は追分寮から自転車を漕いでやっと上れるような坂を下る途中の右側の歩道の柳の木の下に陣取っていた。根津神社の境内に面しており、その向かいが日本医科大で、引っ切り無しに救急車が出入りしていた。オヤジの歳の頃は60くらい、秋田出身で鼻にかかる立派なずうずう弁を流暢に話した。若い頃は炭鉱で働いていたと言うだけあって、小柄だが腕は大きく指の先端は丸太く、節々はモッコリしているのがはっきりと分った。オヤジは荒川の辺に住居が在り、雨の日以外はほぼ毎日屋台のリヤカーを牽き、2時間かけて根津まで通っていた。夜7時ころに現場に到着すると、近くの銭湯に行って汗を流し、それからの開店であるから、概ね9時を回らないと「おでん」に有り付けない。勿論、風呂の間は屋台は開いておらず、リヤカーは路肩にただ止めてあった。当時は朝方まで研究室にいるのは普通であったから、夜中の2時、3時に自転車を走らせ「ホームラン」で5杯〜10杯くらいの日本酒の燗を頂くのが最高の贅沢であった。朝5時が閉店だった。オヤジは月に1度は客に勧められた酒で大いに酔っ払って、太っ腹になり、残りのおでんはサービスとなることがあった。もう20年以上前のことだから、当然ながら「ホームラン」は今は無い。小生が離京して2年位で根津には現れなくなった。「ホームラン」のおでんのネタは32種類あり、「爆弾」というネタが玉子を練り物で包んだものであること、茹蛸の足はおでんの汁に浸けずにそのまま和芥子で刺身風に食うのが旨いことなどをオヤジに教えてもらった。「ホームラン」では32種類のおでん全部を一晩で食った場合、御代がタダであった。10年で4、5人居たとオヤジは言っていたが、小生が通った3年間、それに挑戦している客に遭遇したことはなかった。一人で来る美人の客も何人かいた。皆、紳士と淑女で喧嘩など1度も見たことが無かった。
  
  旨い「おでん屋」とはどんなものだろう。先ずは、店構え(戸口の門構え)が和風であること、暖簾に控えめの赤提灯が灯るのが好ましい。店内は清潔でないといけない。店主が「おでん」好きであること。出汁が良く取れていること。ネタ(種)の種類が多く、特に魚類の練り物が豊富なこと。牛スジや軟骨(豚)があること。豆腐は芯まで程よく味が滲みて、腑抜けが出来る寸前のものを提供してくれること。里芋やジャガイモの根菜類があること。「おでん」は鍋物であるから、春菊を常備しており、汁にしゃぶしゃぶ風に潜らせ、葉が撓える寸前で提供すること。和芥子は程よく鼻を突いてくれること、時に涙も誘って貰いたいものだ。特に豆腐に合う柚子胡椒も欲しい。卵は黄身をそっくりそのまま残しても嫌な顔をされない。汁は勿論熱くないといけない。最後に汁と旨みたっぷりの残渣を完璧に飲み干すのに容易な器であること。酒燗器を兼備していること。・・・・・などなど。それに一度に5個以上のネタを注文しても聞き返さない程に記憶力が良いと言うか、商売に気合の入った店主のいる店。聞き返されると、こっちが忘れていて戸惑うからだ。「おでん」や「鮨」、「天麩羅」の類は、好みも勿論だが、その日の雰囲気や勢いで注文する処があるから、楽しいではないか。店主との掛合に気分も高揚し、酒がススム処が何ともオモシロイ。銀座8丁目の「お多幸」は味もだが、この掛合に魅かれる。

  小生の大の好みの一品ははんぺん(半片)である。エソやタラなどの白身魚のすり身に、卵白、山芋、澱粉などを加えて練り込んだものだ。「はんぺんは片面のみが少し萎えた位が旨い」と教えてくれたのは、他でもない「ホームラン」のオヤジだ。はんぺんを食うときはいつもオヤジの「ィよー、お待ヅー」の威勢のいい声が聞こえる。

  「おでん」はやっぱり屋台がいい。凍えながら・・・、飲んでもその凍えでなかなかに酔えない。人生を語り、また飲む。県庁の楠並木か橘公園、高松の夜間病院の近くの天満橋の上にでも屋台が並ばないものか。

  因みに「ホームラン」は関西風。関東焚のお勧めは銀座8丁目の「お多幸」。宮崎では「味処・集(しゅう)」(宮崎市橘東2丁目、電話0985-24-0788)がオススメ(写真下)。



固定リンク | 2007年11月17日【19】

秋から冬にかけての「みやざき鮨・十貫」。

  「すし」は「酸(す)し」といい、大辞泉によると、 岷をふった魚介類を飯とともに漬け、自然発酵によって酸味を生じさせたもの。熟(な)れずし。生熟れ。」、◆嵜櫃把缶した飯に、生、または塩や酢をふりかけた魚などの具を配した料理。握りずし・散らしずし・蒸しずしなど。酢は暑さに耐えるので夏の食品とされた。」とある。

  分り易くすると、酢・塩に漬けた、すなわち酢あるいは塩で〆た魚が「鮓」であり、魚を調理・調味して旨さを引き出したものが「鮨」である。「寿司」は当て字。

  保存の手法が旨みをひきだしたところが、なんともオモシロイ。正しく天の恵みである。

  握り鮨のルーツは江戸の「華屋与兵衛」までさかのぼる。華屋与兵衛(1799-
1858)が最初に握り鮨を考案し、握ったのは1820-1822年頃だと言われる。山葵を最初に使ったのも与兵衛である。華屋与兵衛の功績は国民栄誉賞、いや文化勲章ものだ。
  
  与兵衛は今も当時もであるが「煮ても焼いても、生でも食えないコハダ」を酢で〆て、掌の酢飯の上にのせ合わせて握る方法(調理法)を考案した。現在の握りずしの本家本元であり、当時は東京湾(江戸前)の魚介を使ったことから、「江戸前鮨」と言われるようになった。現在も東京風の握り鮨を「江戸前鮨」と呼んでいる。

  「二束三文(薪の束)」または「二足三文(こちらは草鞋=ワラジのこと)」という言葉があるが、これは安価であまり長持しないものの喩えであろう。当時、与兵衛が握る鮨は1貫(個)250文もしたという。一文が現在の貨幣価値で25円(諸説あり。当時「四文屋」というのがあり、今風だと100円ショップや100円回転寿司に相当するから、1文=25円が覚え易い=これは小生の全くの私見)というから、当時の250文は6250円となり、ちょっとした何とか料理のフルコースに匹敵する。あまりの高値から老中・水野忠邦(1794-1851)が行った天保の改革(天保12-14年=1841-1843)の倹約令に抵触したとして、与兵衛自身投獄された。高値で贅沢だということで「お縄」であるから凄くて怖い。1824年に屋台で開店した「与兵衛鮨」は1930年(昭和5年)に閉店している。

  江戸時代の江戸前の鮨ネタとしては、コハダ(小鰭)が代表だ。鰭はヒレまたはハタと読み、魚のひれを意味する。「鰭(はた)の広物」とは「ひれの広い魚。大きい魚。⇔鰭の狭物(さもの)」のことを言う。「小肌」とも当てる。

  「コハダの仕事ぶりで、どんな鮨屋かわかる。」と言われるほど、鮨屋にとっても客にとっても、最重要で貴重なネタである。酢と酢飯との相性が抜群で、皮が薄いのも好まれる理由だ。塩と酢で〆た「シンコ」に至っては3〜4個を束ねてサビ無しでそのままか、「煮キリ」をチョビリとつければ昇天の気分である。この魚は鰤(ブリ)などと同じく出世魚であり、関東では10cm以下の幼魚をシンコ(新子)、10cmを超えるとコハダ、15cmになるとコノシロという。東京湾のコハダが有名で、養殖はないが、台湾や東南アジアからの輸入物あり。
 
  江戸期のコハダ以外のネタは、アジ、イカ、タコ、ハマグリ、アナゴ、キス、サヨリなどが主でいづれも生ではなく、酢〆、あるいは加熱調味したものであった。

  コハダと双璧の鮨ネタはマグロの赤身である。江戸期のマグロはサツマイモ、カボチャと並ぶ下下の食い物であり、それも腹身のトロは田畑の肥やしか、「目黒の秋刀魚」ではないが、長屋の庶民が焼いて食していたと言う。赤身も他と同じく生ではなく、「ヅケ」で握られていた。「ヅケ」とはマグロのサクを醤油と味醂に漬け込んむが、その調合や時間などの手法は店でかなり違う。現在では切り身を数十秒漬けて、それから握る鮨屋も珍しくない。
  
  小生も「鮓」・「鮨」をコヨナク愛して止まない人間の一人である。

  みやざきは海・山の幸が豊富と言い切るヒトが多いが、果たしてどんなネタで鮨が握ってもらえるのだろうか、検証してみよう。

  まず何といっても「コハダ」である。銀座の名店「すきやばし次郎」の小野二郎氏は九州産も使う。8月〜9月には有明海や太良町(たらちょう)産の「新子=シンコ」も堪能できる。この「コハダ」・「シンコ」をみやざきに直で仕入れなくてはならない。

  「コハダ」以外の「光もの」であるアジ(鯵)とサバ(鯖)は、大分のお世話になろう。言わずもがな、佐賀関の「関アジ」と「関サバ」である。福岡のサバも侮れない。鹿児島の阿久根のサバも遜色なかろう。九州(西日本)人ならイワシ(鰯)はマイワシ(真鰯)ではなく、門川獲れのウルメでまいろう。

  関サバ・関アジは直球勝負で、生で握ってもらおう。阿久根のサバは皮と2〜3mmの身が仄かに変色する程度に塩で〆、酢にさっと潜らせる。少なくとも8割の身は、鮮紅色でないと旨くない。福岡サバは仕込んで一晩じっくり寝かせたものにしよう。内海の肥ったマアジも捨てたものじゃない。一品もので「なめろう」も頂こう。門川獲れのウルメイワシは注文をしてから手開きしてもらい、下ろしショウガを載せてもらおう。

  意外と知られてないが、寒の日向灘獲れのブリも流涎ものだ。

  マグロは勿論、油津の本(クロ)マグロで決まりだ。トロと赤身、ヅケも頂かなくてはならない。本マグロが仕入れ困難の場合は、ミナミ(インド)マグロで文句は言えない。冷凍技術の進歩で冷凍マグロの方が旨い場合も多々あるから嬉しい。

  赤身ももう一つ欲しいところだ。青島のもどりガツオでどうだ。。下ろしショウガと葱を載せてもらおう。

  白身は日向灘獲れの本カワハギで、濾した肝にモミジオロシと葱をさり気無く載せてもらおう。この手の技は、小生が最も尊敬する鮨職人で、銀座8丁目・並木通りに店を構える「小笹すし」の店主・寺嶋和平氏に教えを仰ごう。

  キスと平目の昆布〆も握って貰いたい。日南獲れのクエ(ハタ科、九州ではアラと呼ぶ場合あり。本アラはスズキ科)はサクで1〜2日寝かして旨み成分が溶出したものが良かろう。白身の極みは、ヤガラ、カサゴの生でいこうか。試しに日向灘獲れの高級魚「オコゼ」も(夏魚だが)握ってもらおう。

  煮物は北浦獲れのアナゴ(マアナゴ)と日向のハマグリ(蛤)、特にハマグリは最高物だ。アナゴは料理人の知恵でフワフワと柔らかい、口の中で蕩けるものにしてもらおう。アナゴの「雉(きじ)焼」も一品もので拵(こしら)えてもらおう。ハマグリは日本一だから、旨くなければ料理人は失格だ。吸い物や焼いてでは甚だしくモッタイナイ。「(煮)ツメ」も超一級の味とトロミ、それに艶が必要だ。煮ハマグリには、日向の平兵衛酢を一滴垂らそうか。

  軍艦ものは、都農のウニで十分に潮と藻の香を堪能できるであろう。海苔は大分産も有るが、これも日本一の有明海苔でないと拙(不味=まず)かろう。串間・都井岬のトビウオの「トビッコ」(ゴールデン・キャビア)も見逃せない。イクラは急速冷凍技術の進歩で日本中どこで食しても同じ味が一年中堪能できる時代だから、心配無用だ。マイナス50度での保存なのでディープ・フリィーザー(deep freezer)が欠かせない。極みは川南産の旭蟹の身に蟹みそ(肝臓と膵臓)を載せてもらおう。

  「みやざき鮨・十貫」のネタはまだまだ沢山有りそうだ。一方で、ネタと一体の「シャリ(舎利)」はどうしよう。「アガリ」と「ガリ」も県産に拘(こだわ)らないといけない。巻ものは「レタス巻き」に習った新メニューの発案・考案にも労したいところだ。

  検証すれば、銀座や築地でなくとも、旨くて結構安い「江戸前鮨」が食えそうであるから、考えるだけで楽しい・・・・・が・・・。無性に銀座八丁目の「小笹寿し」の鮨が喰いたくなってきた。流涎、流涎、流涎・・・。食材調達や手間(仕込み)の労苦を惜しんでは、旨い鮨は出来ない。アソビ心も必要だ。みやざきの海の幸を自在に操った鮨を堪能できる近未来を信じよう。



  

固定リンク | 2007年10月17日【17】

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