院長コラム

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「ニシタチ・新発見」-その3・真っ昼間の西橘通り-

 ケーブルテレビの277ch・旅チャンネルで放送中の「ニッポン居酒屋紀行」シリーズに出演中の太田和彦氏の著書「超・居酒屋入門」(2003年、新潮文庫)のなかの「旅先で居酒屋に入るには(一)〜(三)、pp230〜248」の講釈が気に留まり、記憶に残っている。いろいろと書かれてあるが、一番印象にあることをまとめると、「飲み屋街の通りをタテヨコナナメとじっくり歩き、居酒屋を探しながら土地勘をつける。見るポイントは店構えだ。午後の居酒屋は、のれんは出していなくても玄関があき、中で主人か若いのが休んでいたり、ぼちぼち夜の仕度をはじめていたりするところがある。飲み屋街を昼間歩くと良いのは、あぶないゾーンも気楽に入ってゆけることだ。・・・・・」(ほぼ原文のまま一部抜粋)。要は、旅先でなくとも、陽の高いうちに飲み屋街を散策すると、仕度(仕込み)や掃除をちゃんとやっている「いい居酒屋」が分たっり、裏通りの「隠れ処(が)的いい居酒屋」を発掘できるということだ。太田和彦氏に同感でお勧めである。



固定リンク | 2010年03月02日【59】

「ニシタチ・新発見」-その2・「ニシタチの柳」-

 「橘通西」の繁華街と商店街の組合や組織の詳細については知る由もないが、われわれ「呑んベー」が言うところの「ニシタチ」は、橘通りから西側の「西橘通り」と「中央通り」、「西銀座通り」とその周辺一帯を指すのであろうか。「西橘通り中区会」、「西橘通り振興会」という自治会は「「繁華街・西橘通りを通称で「ニシタチ」」と呼んでいる。「ニシタチ」に限らず、日本中どこでも、繁華街の線引きには曖昧さがある。かえって漠然としていたほうが良いのかもしれない・・・。2月12日開催された「ニシタチおいらん道中」も周辺7商店街の合同企画なので、広義の「ニシタチ」が「真のニシタチ」と解釈できよう
 
 「花咲き花散る宵も 銀座のの下で 待つは君ひとり君ひとり 逢えば行くティールーム 楽し都 恋の都 夢のパラダイスよ 花の東京」(作詞:門田ゆたか、作曲:古賀政男、1936年)。往年の藤山一郎がテンポよく歌った「東京ラプソデー」の1番の歌詞だ。
 
 「ニシタチの柳」は狭義の「ニシタチ」にある。それも唯の柳ではない。どの木にも「」が「宿木」的に植えつけてある(括りつけてある)。春には新緑の柳葉とぶら下がりの蘭の花が楽しみだ。

 「銀ぶら」で柳が植栽された通りを歩くと、なぜか藤山一郎の軽快な「東京ラプソデー」を口ずさみたくなる。近く「ニシタチ」の「呼び込み」が完全規制されるとのことだ。「プチ・銀座」とはいかぬとも、家族で「ぶらり・ニシタチ」散策が出来たら、「市街地活性化」に成功する可能性がある。


固定リンク | 2010年03月02日【58】

「ニシタチ・新発見」-その1・ニシタチ花魁道中-

 江戸の「吉原」、京の「島原」と言えば、遊郭や茶屋の代表格。遊郭の始まりは秀吉の時代らしいが、「「花魁」は、吉原遊郭の遊女で位の高い者のことをいう。18世紀中頃、吉原の禿(かむろ)や新造などの妹分が姉女郎を「おいらん」と呼んだことから転じて上位の吉原遊女を指す言葉となった。「おいらん」の語源については、妹分たちが「おいらの所の姉さん」と呼んだことから来ているなどの諸説がある。江戸時代、京や大阪では最高位の遊女のことは「太夫(たゆう)」と呼んだ。また、吉原にも当初は太夫がいたが、「おいらん」という呼称の登場と前後していなくなった。・・・・・」(Wikipedia)」。
 
 「「花魁は、吉原の遊郭で最も格の高い遊女で張り店を行わないため、引手茶屋を通して「呼び出し」をしなければならなかった。呼び出された花魁が禿や振袖新造を従えて遊女屋と揚屋・引手茶屋の間を行き来することを滑り道中(後に花魁道中)と呼んだ。」(同)」。

 街の、ある情報筋から「12日の暮6つ(午後6時)にニシタチにて花魁道中」と聞き及んだので、早々に身支度を整えて「ニシタチ」へ馳せ参じた。

 「「楽しくて新しい夜の街づくり」を目指す周辺7商店街が合同で始めて企画した。今回のテーマは「和」。花魁役はニシタチのクラブ、スナックを代表して13人の女性が務めた。」」(13日付・宮崎日日新聞「歩廊」)。

 小生は、つい最近、「ニシタチ」にもいろんな「ちい発見」があるに違いないと、酔いに任せての「千鳥足・珍道中」を始めたばかりであった。これから紹介仕るゆえ、御期待あれ!

固定リンク | 2010年03月01日【57】

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