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今週のつぶやき親仁・2019年12月15日(日)〜12月21日(土)

●吞兵衛の、最近受けたショック・・・・・・ほろ酔いニシタチブラで残念な出来事に遭遇・・・・・・それはなんと西橘通りの柳の植木のほとんどが消えていることだ。残っている数本も枯れかけているので木の寿命なのか、あるいは他の原因があるのか察しかねますが、その無残な光景に少なからぬショックを受けています。そして今は大きめの金属製の街灯がそれに代わっていますから、ほろ酔いも醒めるというものです。柳にかぎらず街路樹は心温まるものです。ほろ酔いで柳を少し見上げるとき、月が柳を照らそうものなら、そよ風が柳の枝でもを嫋やかにそろりと揺らそうものなら、そりゃもう下界の喧騒も吹き飛ばされというものです。そこで随分昔にニシタチの柳について書いていましたのでどうぞ・・・・・・2010年3月2日ですからざっと10年も前のことです。つづく。12月21日。

ー「ニシタチ・新発見」-その2・「ニシタチの柳」ー
「橘通西」の繁華街と商店街の組合や組織の詳細については知る由もないが、われわれ「呑んベー」が言うところの「ニシタチ」は、橘通りから西側の「西橘通り」と「中央通り」、「西銀座通り」とその周辺一帯を指すのであろうか。「西橘通り中区会」、「西橘通り振興会」という自治会は「「繁華街・西橘通りを通称で「ニシタチ」」と呼んでいる。「ニシタチ」に限らず、日本中どこでも、繁華街の線引きには曖昧さがある。かえって漠然としていたほうが良いのかもしれない・・・。2月12日開催された「ニシタチおいらん道中」も周辺7商店街の合同企画なので、広義の「ニシタチ」が「真のニシタチ」と解釈できよう。
「花咲き花散る宵も 銀座の柳の下で 待つは君ひとり君ひとり 逢えば行くティールーム 楽し都 恋の都 夢のパラダイスよ 花の東京」(作詞:門田ゆたか、作曲:古賀政男、1936年)。往年の藤山一郎がテンポよく歌った「東京ラプソデー」の1番の歌詞だ。
「ニシタチの柳」は狭義の「ニシタチ」にある。それも唯の柳ではない。どの木にも「蘭」が「宿木」的に植えつけてある(括りつけてある)。春には新緑の柳葉とぶら下がりの蘭の花が楽しみだ。
「銀ぶら」で柳が植栽された通りを歩くと、なぜか藤山一郎の軽快な「東京ラプソデー」を口ずさみたくなる。近く「ニシタチ」の「呼び込み」が完全規制されるとのことだ。「プチ・銀座」とはいかぬとも、家族で「ぶらり・ニシタチ」散策が出来たら、「市街地活性化」に成功する可能性がある。

琵琶湖の東湖畔長浜の割烹・能登でいただいた料理を記憶の限り・・・・・・まずは生ビール小に、私的にはめったにない日本酒の「七本槍」、そして竹鶴ロック数杯・・・・・・例によってほぼ泥酔しましたので(でもホテルへは徒歩で、おまけにコンビニで水を買って帰りました)、所望した料理が何であったか、薄い記憶ですが辿ってみます。小鉢は小エビ(琵琶湖産のスジエビ他3点盛)→刺盛(ビワマスニゴロ鮒の子付)→(ニゴロ鮒)鮒寿しモロコ天麩羅鴨焼鴨鍋イサザ鍋→雑炊・・・・・・と記憶しておりますが、そのほかにも頂いたかもしれません。カウンター席目前の水槽でニゴロブナとビワマスが泳いでいるのは今も脳裏にこびりついています。メニューも大きめのホワイトボードにびっしり書かれ、むろん琵琶湖物以外のメニューのほうが多いのですが、私が所望したのは全て琵琶湖産に限りました。12月16日。


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今週のつぶやき親仁・2019年12月8日(日)〜12月14日(土)

琵琶湖の魚類の特徴・・・・・・とはなんぞや。
古(いにしえ)のころは、日本の古とは大和朝廷から奈良時代のころでしょうが、近江とよばれていたのですから(静岡が遠江=とおとうみと呼ばれていたということは)、当時、琵琶湖は海と考えられていたのでしょう。
琵琶湖は世界で3番目に古い古代湖であり、現在、80種(亜種を含む)の魚類が生息しているそうで、オオクチバス(ブラックバス)やワカサギ等の国内外からの外来種を除くと、在来種は63種であり、さらに16種琵琶湖固有種魚が生息している。
ではその16種を列挙してみましょう。アブラヒガイ(コイ科)・ホンモロコ(コイ科)・イサザ(ハゼ科)・ゲンゴロウブナ(コイ科)・ニゴロブナ(コイ科)・ワタカ(コイ科)・スジシマドジョウ小型種琵琶湖型(ドジョウ科)・スジシマドジョウ大型種(ドジョウ科)・スゴモロコ(コイ科)・ビワマス(サケ科)・イワトコナマズ(ナマズ科)・琵琶湖のコイ野生型(コイ科)・ビワヒガイ(コイ科)・ビワコオオナマズ(ナマズ科)・ビワヨシノボリ(ハゼ科)・ウツセミカジカ(カジカ科)・・・・・・の16種であります。
つづく。12月13日。

●私は小丸川上流の、そのまた支流の、どちらかといえばかなり源流(西郷隆盛の薩軍が明治10年=1877年8月24日ころに越えた清水岳)に近いところの生まれですから、幼少より川魚には親しんできました。小丸川は高鍋の日向灘を河口としますが、島津氏と大友氏が戦った1578年の「耳川の戦」の舞台ともなりました。いつからどのような因果で美々津の日向灘に注ぐ川が耳川(椎葉村が源流)となり、本来の耳川(高城川とも)が小丸川になったのか、つい先日、日向市の観光協会に電話で問い合わせたところ、明快な返答は得られませんでした。とまれ「耳川の戦」は木城町の「耳川」で雌雄を決しました。本題に戻しましょう・・・・・・小丸川の上流で生まれたからにはよく川で遊びましたが、そのなかで私の所望は、鰻に鮎にウグイ(=イダ、南郷では「いだごろ」と呼びます)に山女(=エノハ、幼魚はシバゴ=柴子が当て字??)にオイカワ=ハエ(ハエタン)にカマツカに・・・・・・そんなところでしょう。鮎とシバゴはセゴシが、山女は焼きが、いだごろとカマツカは焼いて乾燥したものを煮つけるのが、私には美味いですな。そうはいっても川魚の独特な匂いには多少の閉口感がありますが・・・・・・「能登」の手当(処置)はそれを微塵も感じさせない絶品ですぞ。つづく。12月13日。

●人間も然ることながらシモは饂飩、ラーメンにいたるまでヒトの好嫌はひとさまざまであります。極みにあっては、「ランキング1位とか評判の店なんぞ多勢の口に合うものは、俺の口に合わない」など公然と自己主張するヒトもあります。それはそれで、ヒトの味覚は千差万別ですから納得してしまいますが。そもそもヒトの好嫌については、だれも反論する余地がないのです。押しなべて3割の支持があれば御の字の大満足とすべしです。半数ものサポーターがいるなんて幸福者であります。わたしも旅ザケをいろんな処でしてきましたが、行き当たりばったりのユキズリ的な探索では、イイ店に中(あ)たることはそうもありません。吉田類の「酒場放浪記」や太田和彦の「日本居酒屋紀行」を参考にすることしばしばですが、実際行ってみると期待外れのことが少なくありません。「酒場放浪記」はそれもそうで類さんが店を決めるのじゃなくてテレビ局が選定しているようです(これは類さんに私自身が直接聞いたことです)。ハズレが少ないのは俄然、太田さんの「日本居酒屋紀行」のほうで、私が訪問した数件はすべてほぼ満足しました。その中で3度(3回ともワザワザです)も訪ねたのが長浜の「能登」です。上の写真右の道路右側が「能登」の入り口です。つづく。12月9日。


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今週のつぶやき親仁・2019年12月1日(日)〜12月7日(土)

大分こぼれ譚・・・・・・大分2日目、レンタカーを借りて豊後竹田の岡城へ。竹田市到着は昼時。さて何を喰おうかと狭い街並みをほぼ一周し、前日からの飽食でもあり、昭和の体むんむんのこじんまり大衆食堂へ。ちゃんぽんを喰らって駐車場を見回すと立派な人物像がありました。それが写真の”軍神”、広瀬武夫中佐(1868〜1904)であります。なるほどこれが彼の文部省尋常小学唱歌に歌われた「広瀬中佐」かと感懐しました。同時に司馬遼太郎「坂の上の雲」の情景がはっきりと浮かびました。同行の者は、むろんチンプンカンプンでしたが。それではれいのWikidediaを拝借して広瀬中佐を書き留めておきましょう。
1904年(明治37年)より始まった日露戦争において旅順港閉塞作戦に従事
3月27日、第2回の閉塞作戦において閉塞船福井丸を指揮していたが、敵駆逐艦の魚雷を受けた。撤退時に広瀬は、自爆用の爆薬に点火するため船倉に行った部下の杉野孫七上等兵曹(戦死後兵曹長に昇進)がそのまま戻ってこないことに気付いた
広瀬は杉野を助けるため一人沈み行く福井丸に戻り、船内を3度も捜索したが、彼の姿は見つからなかった。やむを得ず救命ボートに乗り移ろうとした直後、頭部にロシア軍砲弾の直撃を受け戦死した。37歳(満35歳)だった。即日中佐に昇進した。(Wikidediaより)。 12月1日。


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