院長コラム

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今週のつぶやき親仁・2019年12月1日(日)〜12月7日(土)

大分こぼれ譚・・・・・・大分2日目、レンタカーを借りて豊後竹田の岡城へ。竹田市到着は昼時。さて何を喰おうかと狭い街並みをほぼ一周し、前日からの飽食でもあり、昭和の体むんむんのこじんまり大衆食堂へ。ちゃんぽんを喰らって駐車場を見回すと立派な人物像がありました。それが写真の”軍神”、広瀬武夫中佐(1868〜1904)であります。なるほどこれが彼の文部省尋常小学唱歌に歌われた「広瀬中佐」かと感懐しました。同時に司馬遼太郎「坂の上の雲」の情景がはっきりと浮かびました。同行の者は、むろんチンプンカンプンでしたが。それではれいのWikidediaを拝借して広瀬中佐を書き留めておきましょう。
1904年(明治37年)より始まった日露戦争において旅順港閉塞作戦に従事
3月27日、第2回の閉塞作戦において閉塞船福井丸を指揮していたが、敵駆逐艦の魚雷を受けた。撤退時に広瀬は、自爆用の爆薬に点火するため船倉に行った部下の杉野孫七上等兵曹(戦死後兵曹長に昇進)がそのまま戻ってこないことに気付いた
広瀬は杉野を助けるため一人沈み行く福井丸に戻り、船内を3度も捜索したが、彼の姿は見つからなかった。やむを得ず救命ボートに乗り移ろうとした直後、頭部にロシア軍砲弾の直撃を受け戦死した。37歳(満35歳)だった。即日中佐に昇進した。(Wikidediaより)。 12月1日。


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今週のつぶやき親仁・2019年11月24日(日)〜11月30日(土)

●油屋熊八は別府に招喚されたのでもなんでもなく、自分から移住してきたようです。では、破天荒なプロフィールを、像裏面の刻文を略して紹介しましょう。
1863(文久3)年、愛媛県宇和島の米問屋に生まれる。
30歳のとき大阪へ出て、米の相場で成功し、巨万の富を手にする。つけられたアダ名が”油屋将軍”。
34歳で相場に失敗し、全財産をなくす。臭くて暑い船底に乗りアメリカへ。
3年間をかけてカナダからメキシコまでを旅し、38歳のとき帰国。アメリカでキリスト教の洗礼を受けていた。
46歳のころ、別府温泉へ移り住み、ホテルを経営しはじめた。大阪の上空から飛行機でビラをまいたり、”山は富士 海は瀬戸内 湯は別府”と書いた標柱を富士山にかつぎあげて立てたり・・・・・・当時はだれも思いつかないような奇抜なアイデアをつぎつぎに実行した。(亀の井ホテルの創業者)。
美人バスガイドが案内する観光バスを日本ではじめてつくったのもこの人である。”地獄めぐり”は爆発的人気をあつめた。(亀の井バスの創業者)。
由布院を観光地として開発。(亀の井別荘の建設)。別府-由布院-久住高原-飯田高原-阿蘇-長崎を結ぶ道路をつくることも視野にいれていた。
1935(昭和10)年、別府市で死去。享年73歳。熊八の”ここを世界の観光地にしよう”との夢は、別府・由布院のあちこちに息づいている。
11月29日。

●「地域起こし」か「地域興し」か・・・・・・手っ取り早い手段がそこに天才か破天荒な人間を招喚して住んでもらうこと。何かで読んだ記憶だが、栃木の益子焼を全国区にしたのが陶芸家で民芸運動家でもあった濱田庄司(1894〜1978)という。益子焼は、「江戸時代末期、嘉永年間に常陸国笠間藩(現笠間市)で修行した大塚啓三郎が益子に窯を築いたことにより始まったとされる。益子焼の陶土は、豊富にあるものの肌理が粗く精巧な器を作るには向かなかったため、当初の益子焼は主に水がめ・火鉢・壺などの日用品として製作されていた。その後1927年から創作活動を開始した濱田庄司によって花器・茶器などの民芸品が作られるようになり、日本全国に知られることとなる。」(Wikidediaより)。 別府にもいました・・・・・・司馬さんも、「伊予の人だという。掌が異様に大きくて、その大きな掌で人に握手すると誰でも熊八が好きになったといわれた。大正末年か、昭和初年だったかに、この熊八が全国巨掌(大掌?)大会とかいうものをこの由布院で催したそうで、作家の長谷川伸もそれに参加するつもりでやってきたともいわれる。」(司馬遼太郎「街道をゆく・8」p137・朝日文庫)。そうです、この「油屋ノ熊八」(同pp129〜139)さんこそが、此処別府と由布院の観光「起こし」と「興し」に大きく寄与した破天荒人なのだ。つづく。11月26日。


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今週のつぶやき親仁・2019年11月17日(日)〜11月23日(土)

●戦国の世、日向国の統治は以前ながら伊東氏であり、その全盛期は日向伊東氏11代(伊東氏16代)の義祐(1512〜1585)からその子の義益(1546〜1569)の頃でろう。当時、義祐が当主である頃は佐土原城を、義益が当主である頃は都於郡城を中心とした48の外城及び砦が存在し、そのひとつが神門城なのである。もともと伊東氏は鎌倉時代に地頭として伊豆から日向に来、足利尊氏によって都於郡に所領を得たという。古墳時代もそうであったが、その後も長く日向国(宮崎県)の中心(県都)は西都や佐土原だったということだ。再確認だな。そこでやはりWikidediaの力を借り、西都の歴史を知りましょう。
「▼律令期には現在市の中心部となっている妻(つま)地区に日向国国府、日向国分寺、国分尼寺が置かれ、日向国の中心地として栄えた。室町時代〜戦国時代には日向国の地頭、伊東氏が市南部に都於郡城を構え本拠地とし、領国経営の拠点とした。天正遣欧少年使節主席正使としてヨーロッパに渡った伊東マンショは、都於郡城で生誕した伊東氏の一族である。薩摩の島津氏の侵攻により伊東氏が一時没落した後、都於郡城には島津義久が入城し、豊臣秀吉の九州征伐、高城の戦いにおける前線基地となったが、島津氏は完敗・敗北遁走し、都於郡城は戦後廃城となった
江戸時代は、穂北に幕府の番所が設けられ妻・穂北(ほきた)地区は幕府の天領となり、三財(さんざい)・三納(みのう)・都於郡(とのこおり)地区は佐土原藩島津家2万7千石に組み入れられた。この時期には伊東氏飫肥藩領の赤江・城ヶ崎(現宮崎市)が江戸・上方との物流拠点としての性格を備え、西都地区は日向国の拠点としての機能を次第に失ったようである
律令期には現在市の中心部となっている妻(つま)地区に日向国国府、日向国分寺、国分尼寺が置かれ、日向国の中心地として栄えた。室町時代〜戦国時代には日向国の地頭、伊東氏が市南部に都於郡城を構え本拠地とし、領国経営の拠点とした。天正遣欧少年使節主席正使としてヨーロッパに渡った伊東マンショは、都於郡城で生誕した伊東氏の一族である。薩摩の島津氏の侵攻により伊東氏が一時没落した後、都於郡城には島津義久が入城し、豊臣秀吉の九州征伐、高城の戦いにおける前線基地となったが、島津氏は完敗・敗北遁走し、都於郡城は戦後廃城となった:律令時代「広義には7世紀半ばから10世紀ころまでの間、狭義には奈良時代」(広辞苑)。
江戸時代は、穂北に幕府の番所が設けられ妻・穂北(ほきた)地区は幕府の天領となり、三財(さんざい)・三納(みのう)・都於郡(とのこおり)地区は佐土原藩島津家2万7千石に組み入れられた。この時期には伊東氏飫肥藩領の赤江・城ヶ崎(現宮崎市)が江戸・上方との物流拠点としての性格を備え、西都地区は日向国の拠点としての機能を次第に失ったようである。」(Wikidediaをそのまま)。

:日向国分寺は741〜756年の間に建てられたという(「続日本紀」)。明治3年の「大教宣布」と明治4年(1871)の「神仏分離令」による「廃仏毀釈」(明治4年)により、日向国分寺も廃寺となる。これもモッタイナイことだな。そもそも国分寺はいかなる理由で全国に建てられたのか・・・・・・それは聖武天皇741年、国の統治をやりやすくするために全国に配置。明治政府が神道(天皇)を国家統制のために利用したのと同じく、聖武天皇は「仏教」をそれとした・・・・・・のである。この「廃仏毀釈」は歴史的に罪深い政治的弾圧である。これによって特に宮崎、鹿児島の寺の多くが破壊されたことを知らなくてはならない

つづく。11月19日。

●興味のついでながら飫肥について調べよう。
飫肥城を築城したのは土持氏(宇佐八幡宮の神官の出)・・・・・・南北朝時代のこと。
室町時代末期の1458年、島津一族の志布志城主、新納忠続(?〜1489)を入城させる。
戦国初期には、薩摩国の島津氏の属城として土持氏が治める。
1484年、日向中北部を支配する伊東氏が土持氏を裏切り、飫肥に侵攻。その後、断続的に侵攻を繰り返し1567年、伊東義祐(1512〜1585)が遂に飫肥城を奪取。
1572年、木崎原の戦で没落し、日向国全土を島津氏が治める。飫肥も島津へ。
1587年、伊東輔兵は秀吉率いる九州平定軍の先導役を務めた功で飫肥を取り戻す。関ヶ原合戦でも九州では少ない東軍に加わったことで、明治の版籍奉還まで飫肥の大名を守る。

つづく。11月19日。


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