院長コラム

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今週のつぶやき親仁・2019年12月8日(日)〜

●人間も然ることながらシモは饂飩、ラーメンにいたるまでヒトの好悪はひとさまざまであります。極みにあっては、「ランキング1位とか評判の店なんぞ多勢の口に合うものは、俺の口に合わない」など公然と自己主張するヒトもあります。それはそれで、ヒトの味覚は千差万別ですから納得してしまいますが。そもそもヒトの好悪については、だれも反論する余地がないのです。押しなべて3割の支持があれば御の字の大満足とすべしです。半数ものサポーターがいるなんて幸福者であります。わたしも旅ザケをいろんな処でしてきましたが、行き当たりばったりのユキズリ的な探索では、イイ店に中(あ)たることはそうもありません。吉田類の「酒場放浪記」や太田和彦の「日本居酒屋紀行」を参考にすることしばしばですが、実際行ってみると期待外れのことが少なくありません。「酒場放浪記」はそれもそうで類さんが店を決めるのじゃなくてテレビ局が選定しているようです(これは類さんに私自身が直接聞いたことです)。ハズレが少ないのは俄然、太田さんの「日本居酒屋紀行」のほうで、私が訪問した数件はすべてほぼ満足しました。その中で3度(3回ともワザワザです)も訪ねたのが長浜の「能登」です。上の写真右の道路右側が「能登」の入り口です。つづく。12月9日。


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今週のつぶやき親仁・2019年12月1日(日)〜12月7日(土)

大分こぼれ譚・・・・・・大分2日目、レンタカーを借りて豊後竹田の岡城へ。竹田市到着は昼時。さて何を喰おうかと狭い街並みをほぼ一周し、前日からの飽食でもあり、昭和の体むんむんのこじんまり大衆食堂へ。ちゃんぽんを喰らって駐車場を見回すと立派な人物像がありました。それが写真の”軍神”、広瀬武夫中佐(1868〜1904)であります。なるほどこれが彼の文部省尋常小学唱歌に歌われた「広瀬中佐」かと感懐しました。同時に司馬遼太郎「坂の上の雲」の情景がはっきりと浮かびました。同行の者は、むろんチンプンカンプンでしたが。それではれいのWikidediaを拝借して広瀬中佐を書き留めておきましょう。
1904年(明治37年)より始まった日露戦争において旅順港閉塞作戦に従事
3月27日、第2回の閉塞作戦において閉塞船福井丸を指揮していたが、敵駆逐艦の魚雷を受けた。撤退時に広瀬は、自爆用の爆薬に点火するため船倉に行った部下の杉野孫七上等兵曹(戦死後兵曹長に昇進)がそのまま戻ってこないことに気付いた
広瀬は杉野を助けるため一人沈み行く福井丸に戻り、船内を3度も捜索したが、彼の姿は見つからなかった。やむを得ず救命ボートに乗り移ろうとした直後、頭部にロシア軍砲弾の直撃を受け戦死した。37歳(満35歳)だった。即日中佐に昇進した。(Wikidediaより)。 12月1日。


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今週のつぶやき親仁・2019年11月24日(日)〜11月30日(土)

●油屋熊八は別府に招喚されたのでもなんでもなく、自分から移住してきたようです。では、破天荒なプロフィールを、像裏面の刻文を略して紹介しましょう。
1863(文久3)年、愛媛県宇和島の米問屋に生まれる。
30歳のとき大阪へ出て、米の相場で成功し、巨万の富を手にする。つけられたアダ名が”油屋将軍”。
34歳で相場に失敗し、全財産をなくす。臭くて暑い船底に乗りアメリカへ。
3年間をかけてカナダからメキシコまでを旅し、38歳のとき帰国。アメリカでキリスト教の洗礼を受けていた。
46歳のころ、別府温泉へ移り住み、ホテルを経営しはじめた。大阪の上空から飛行機でビラをまいたり、”山は富士 海は瀬戸内 湯は別府”と書いた標柱を富士山にかつぎあげて立てたり・・・・・・当時はだれも思いつかないような奇抜なアイデアをつぎつぎに実行した。(亀の井ホテルの創業者)。
美人バスガイドが案内する観光バスを日本ではじめてつくったのもこの人である。”地獄めぐり”は爆発的人気をあつめた。(亀の井バスの創業者)。
由布院を観光地として開発。(亀の井別荘の建設)。別府-由布院-久住高原-飯田高原-阿蘇-長崎を結ぶ道路をつくることも視野にいれていた。
1935(昭和10)年、別府市で死去。享年73歳。熊八の”ここを世界の観光地にしよう”との夢は、別府・由布院のあちこちに息づいている。
11月29日。

●「地域起こし」か「地域興し」か・・・・・・手っ取り早い手段がそこに天才か破天荒な人間を招喚して住んでもらうこと。何かで読んだ記憶だが、栃木の益子焼を全国区にしたのが陶芸家で民芸運動家でもあった濱田庄司(1894〜1978)という。益子焼は、「江戸時代末期、嘉永年間に常陸国笠間藩(現笠間市)で修行した大塚啓三郎が益子に窯を築いたことにより始まったとされる。益子焼の陶土は、豊富にあるものの肌理が粗く精巧な器を作るには向かなかったため、当初の益子焼は主に水がめ・火鉢・壺などの日用品として製作されていた。その後1927年から創作活動を開始した濱田庄司によって花器・茶器などの民芸品が作られるようになり、日本全国に知られることとなる。」(Wikidediaより)。 別府にもいました・・・・・・司馬さんも、「伊予の人だという。掌が異様に大きくて、その大きな掌で人に握手すると誰でも熊八が好きになったといわれた。大正末年か、昭和初年だったかに、この熊八が全国巨掌(大掌?)大会とかいうものをこの由布院で催したそうで、作家の長谷川伸もそれに参加するつもりでやってきたともいわれる。」(司馬遼太郎「街道をゆく・8」p137・朝日文庫)。そうです、この「油屋ノ熊八」(同pp129〜139)さんこそが、此処別府と由布院の観光「起こし」と「興し」に大きく寄与した破天荒人なのだ。つづく。11月26日。


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