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江夏豊の「私の履歴書」

 2018年早々の4日、燃える男こと星野仙一氏の訃報。1977年に個人最多の18勝、宿敵巨人からは通算で35勝挙げた、野球殿堂の闘将だ。
 2017年12月1日から31日までの日経新聞「私の履歴書」は、あの江夏豊であった。野球大好き人間としては、その内容に感嘆するところ大であったのでまとめて見た。

○誕生は1948(昭和23)年5月15日。出生地は父方の田舎である奈良県柳生村。母親は大阪空襲で奈良に疎開していたことから知り合う。

○江夏は母方の故郷である鹿児島の姓。「こうか」と呼んだが関西に出て「えなつ」とした。一時は鹿児島でも住んだが、幼少から西宮、尼崎へ移住。14歳と7歳上の兄あり。尼崎市の中学生相撲大会で優勝し、地元の社会人チームから勧誘されたこともあり。中学の先生の勧めで強豪校のセレクション(実技試験)を受ける。報徳学園(兵庫)と浪商(大阪・現大体大浪商)をパスするが、報徳は「勉強もせないかん」、浪商は「走ってばかり」なのでやめる。入学したのは新興の大阪学院。高校2年の夏の大会の2回戦で浪商を破り、準々決勝で敗退。高校時代からホームランも放つ強打者でもあった。同世代の関西のプロ野球選手はゴロゴロいて、PL学園の福嶋久晃(大洋)、加藤秀司(阪急)、福本豊(大鉄)、門田博光(南海)、外山義明(ヤクルト)、鈴木啓示(近鉄)。その育英の鈴木啓示との練習試合で15三振を奪うも、相手からは27三振を取られた。鈴木のようなカーブを投げたいから教えてくれと監督に訴えると、その瞬間、監督は振り向きざまにグーパンチで江夏を吹っ飛ばした。そして、「まっすぐでストライクも放らんやつが、カーブだと?」と怒鳴った。「おかげでカーブを投げられないままプロ入りすることになった。」。

○時代が時代だけに、皆腹を空かせていたが、江夏の母親は小料理屋を営んでいたため、ひもじいおもいをしたとことはない。バットで尻をたたく「バツケン」のために尻に痣ができ、痛くて電車にも座れず、恥ずかしくて銭湯にも行けなかった。朝練のため毎朝6時半に家を出る生活を高校3年間したが苦しいと思ったことはないと云う。高校3年生の夏の県大会はベスト4止まり。東海大学で野球をすると決めていた。

○ところが、1966年(昭和41)の阪神からドラフト1位指名される。他にも巨人、阪急、東映が同時指名し、クジで阪神が当てた。大学かプロか他の球団か迷ったが、挨拶に来たベテランスカウトの「おれは別におまえなんかほしいとは思わん。社交辞令で来ているだけなんだ」の売り言葉に乗って奮起し、阪神入団を決める。年俸は180万円、契約金は税抜きの800万円。その800万円も江夏の手もとにあったのはわずかに1時間ほど。希望の背番号は「1」であったが、「1」は前年近鉄入団の鈴木啓示(近鉄)がつけていたのでライバル心から諦め、「28」を選ぶ。

○入団時も球種は直球のみでカーブも投げられない。史上、このようなドラフト1位投手がいただろうか。阪神入団時の主力選手は、村山実、若生智男、ジーン・バッキー(以上投手)、野手は三宅秀史(3塁手)、藤田平(遊撃手)、吉田義男(2塁手)、藤本勝巳(1塁手)、遠井吾郎、外野手は山内一弘、西園寺昭雄といった顔触れであった。川崎徳次投手コーチは、「カーブ放れんと、プロ野球に入ってきたんか」とゲラゲラ笑った。除塵の王さんは、「豊のカーブはわかっていても打てないんだよ。曲がらないから」と言ったと云う。江夏は指が短く、変化球に向いていなかった。

○1967年(昭和42)プロ1年目のキャンプ紅白戦では、ストレートと曲らないカーブで計14イニングの1失点。だが、オープン戦では振るわず、開幕一軍は危ぶまれたが、左腕不足のため辛うじて一軍獲得。初登板は4月13日の大洋戦、3イニング1安打。4月19日の大洋戦で先発し、初ホームランを喫す。4月23日、中日戦の敗戦処理で登板し、プロ2打席前で自らホームラン。藤本定義監督に「すごいバッティングだったな。バッターに転向するか?」と真顔で言われる。

○1967年(昭和42)4月29日に甲子園の広島戦で初勝利し、それから6連勝。その後勝利なく先発起用は無いと考え、毎晩ネオン街に繰り出し、麻雀をし、徹夜でグランドへ通っていたが、いきなりの先発と言われ、トレーナー室で30分の仮眠しての登板。2安打1失点、10奪三振で完投勝利。年俸は180万円であったが、1勝につき20万円のボーナスがついてきた。これは阪神入団が決まった直後の村山実投手との対談で、「野球選手はいつなんどき、事故があるかわからない。それに備えて1勝ナンボという契約をするといい」の知恵付けから。勝っては繁華街での大散財。その「『1勝20万円』で、人よりもいいものを食べ、いい服を着て、いい女性と付き合う。」。そして巨人との初戦、王さんは2三振に抑えたが、ミスターはそうは行かずに「他の打者なら当たってもどん詰まり、普通なら空振りする球」をショート内野安打。

○その巨人との初戦で勝利。この年は巨人V9の3年目。プロ初年度、高卒組でただ1人のオールスター出場。川上哲治氏の監督推薦であった。そのオールスターでベンチでのんびりしていると、金田正一氏に「ばかやろう。ブルペンに行って諸先輩の投球をようみとけ」と叱責される。また夜のススキノで出くわした時も、「豊よ、バッターを見ろ」「投球の肝は打者のタイミングをはずすことだ。モーションを起こし、テークバックした腕が上がってトップの位置にきたら、あとは振り下ろすだけでどうにもならない。しかし、それまでなら打者の様子を見てタイミングを外せる。だからバッターを見るんだ」と教わった。左目で捕手を見つつ、右目で打者を見ることができるようになり、人相が悪くなったが、これが「江夏の21球」のベースとなった。1年目は12勝13敗、230回3分の1を投げ、225奪三振で、パリーグの鈴木啓示の222個に勝った。その年のセリーグ新人王は武上四郎選手(サンケイ=現ヤクルト・二塁手で打率2割9分9厘)。その新人王を江夏は18打数1安打に抑えていたため、「以降、記者投票で決まるタイトルには興味がなくなった」と書いている。

○プロ入り2年目の1968年(昭和43)は飛躍の年であった。そのきっかけは、この年に招かれた林義一投手コーチ。現役時代は右横手投げの技巧派の、国鉄(現ヤクルト)で監督も務めた人で基本から鍛えなおしてくれた。「ボールっちゅうもんは丸いものだから、自分もボールに対して丸くなり、素直になること。考え方が偏ったり、フォームのバランスがゆがんだりするとだめだよ」っと、ゴムまりを天井に向かって投げた。回転を意識し、108の縫い目があるボールをきれいに回転させることがどれだけ大事で、どれだけ難しいか、を教わった。そうすることで制球力がついてくるのがわかった。当時の奪三振記録は稲尾和久(西鉄=現西武)の353個。この年、その大記録を打ち破るチャンスが到来した。

○1968年(昭和43)は巨人V9の4年目。9月17日からの対巨人4連戦前のゲーム差はわずか2ゲーム。それまでの奪三振数は345個で、新記録まで9個。初回と二回、三回、四回にそれぞれ2三振ずつで353個のタイ記録。王ちゃんには4回まで2三振。さて、354個目の新記録を誰から取るかの大問題。そこからが江夏の真骨頂だ。王ちゃんから新記録を取ると決め、次の王ちゃんの打席まで三振を取らない作戦を実行し、遂に7回、ストレートで三振を奪取。王ちゃんもフルスイングのあっぱれ大空振りであった。

○354個の新記録に要した投球回数は276回3分の1。稲尾の404イニングを大幅に上回った大記録であった。その4連戦初戦に勝って巨人とのゲーム差は1。翌9月18日のダブルヘッダーの1試合目は阪神が勝ってゲーム差無しで迎えた2試合目。先発のジーン・バッキーが投げたボールが2球続けて王ちゃんへの危険投球。両チーム乱れての乱闘事件となる。バッキーはこの乱闘で自ら繰り出したパンチで右手を骨折し、選手生命を絶たれた。巨人の先発、金田正一は用心深く拳にタオルを巻いての登場であった。江夏も参戦し、乱闘終了後、ユニホームを脱ぐと、背中や太腿など7カ所くらいにスパイク傷があった。巨人の対江夏急襲要員の仕業だった。この試合は巨人が勝ったが、翌日の4戦目、江夏は先発し完封勝ち。中1日で21回、290球を投げ、2完封。この年、阪神は優勝を逃すが、江夏自身の成績は、49試合登板、37試合先発、26完投、うち8完封、25勝12敗で最多勝のタイトル獲得。奪三振数は401個で、サンディー・コーファックス(ドジャース)を抜いて世界記録達成。当時の年間試合数は134試合(現在は143試合)、大リーグは162試合制のころの記録だけに余計に価値がある。三振は1個につき少なくとも3球投げなくてはならないから、9回完封での最少投球数は91球。打たせてアウトを稼いだ方が得策かも。

〇1970年(昭和45)、村山実氏が監督(兼選手)就任。1969年発覚の「黒い霧事件」の余波(?)で江夏も6月、「江夏の黒い交際」報道。姫路の飲食店で初対面の暴力団関係者から百万円の腕時計をもらったとというもの。警察は暴力団関係者との無関係を証明したが、持病(?)の心臓病が悪化。「心室性期外収縮頻発」で心拍数は200回以上、それでも投げ続け、ニトログリセリンを首からぶら下げ動悸を抑えた。

〇1971年(昭和46)7月17日のオールスター第1戦で先発。3回9連続三振を達成。9人目の打者の加藤秀司(阪急)のキャッチャーフライ。田淵捕手に「捕るな」ではなく「追うな」と叫んだのはこの時。前年の5三振と、第3戦での1三振を加えて、連続15奪三振。「最後は野村(克也)さんにちょこんと当てられてストップ。野村さんがバットを短く持って出てきたのには、思わず噴き出してしまった。」。このオールスター第1戦では2回、自らホームランを放った。このオールスター第1戦、セリーグは5人の継投でノーヒットノーランを達成。

○1973年(昭和48)、村山実氏の引退の年。そして阪神、中日、そして阪神での優勝争い。8月30日、ノーヒットノーランを演じた試合、0対0で迎えた延長11回の打席で江夏自らサヨナラ本塁打で首位に。しかし残り2試合、マジック1で10月20日の中日戦を控えた前日、球団幹部に呼び出され「これは金田監督も了解していることだが、名古屋で勝ってくれるな」と促される。「選手の」年俸を心配してか、優勝すると金がかかる」がその理由。テーブルをひっくり返しして席を立ち、試合当日はもちろん勝ちに行ったがその気負いが禍して敗戦投手。優勝を逃した。

○阪神入団8年目と9年目は12勝にとどまる。その1975年に南海の江本孟紀投手らとの2対4トレード。力の衰えと吉田義男監督やナインとの不協和音。それに「江夏は金でもめる」と・・・・・・フロントとの確執。スポーツ記者を介しての野村克也・南海監督との会食。「ノムさんは出てきた料理に箸もつけず、ひたすら野球の話をした。変なおっさんだなあ、と思いながら耳を傾けていると・・・・・・」・・・前年(1974年)のシーズン終盤の試合で2死満塁のピンチ、フルカウントの打者をボールで空振三振に切って取った話に及び、ノムさんは「おまえ、あの場面、意識してボールを放ったやろ」と。この会食中、ノムさんは一言も「一緒に野球をやろう」とは言わなかったそうだ。それでか、1976年からは南海でプレーすることになった。実は巨人からも誘いがきていたそうだ。背番号は28から17へ。

○当時は今と違ってパリーグの人気は薄で、南海の本拠地である大阪球場も御多分に洩れずの不人気で閑古鳥が鳴く状態。移籍初年の成績は6勝12敗。2年目、ノムさんは江夏に「リリーフやらんか」。当時、きれいなマウンドに上がるのがまともな投手の時代。救援は江夏にとって屈辱に他ならなかった。しかし、ノムさんとは隣保の関係で、江夏の子供の名付け親でもあり、なんと言っても野球談議で夜を明かす仲。空が白みかけ部屋に帰ろうとしたとき、「なあ豊、野球界にいっぺん、革命を起こしてみろよ」の言葉。江夏は「革命」に魅力を感じてリリーフ転向を決断。


固定リンク | 2018年02月08日【84】

「端午の節句」を復習

●きのうの5日は「こどもの日」だった。Wikipediaで歴史を探って見よう。「この日を端午とする風習は、紀元前3世紀中国で始まったとされる。楚の国王の側近であった屈原は人望を集めた政治家であったが失脚し失意のうちに汨羅江に身を投げることとなる。それを知った楚の国民たちはちまきを川に投げ込み魚達が屈原の遺体を食べるのを制したのが始まりと言われている。」「宮中では菖蒲を髪飾りにした人々が武徳殿に集い天皇から薬玉(くすだま:薬草を丸く固めて飾りを付けたもの)を賜った。かつての貴族社会では薬玉を作りお互いに贈りあう習慣もあった。宮中の行事については奈良時代に既にその記述が見られる。」「鎌倉時代ごろから『菖蒲』が『尚武』と同じ読みであること、また菖蒲の葉の形が剣を連想させることなどから、端午は男の子の節句とされ、男の子の成長を祝い健康を祈るようになった。鎧、兜、刀、武者人形や金太郎・武蔵坊弁慶を模した五月人形などを室内の飾り段に飾り、庭前にこいのぼりを立てるのが、典型的な祝い方である(ただし『こいのぼり』が一般に広まったのは江戸時代になってからで、関東の風習として一般的となったが京都を含む上方では当時は見られない風習であった)。鎧兜には男子の身体を守るという意味合いが込められている。こいのぼりをたてる風習は中国の故事にちなんでおり、男子の立身出世を祈願している。典型的なこいのぼりは、5色の吹き流しと3匹(あるいはそれ以上)のこいのぼりからなる。吹き流しの5色は五行説に由来する。」「江戸時代まで、端午の日に子供は河原などで石合戦をする『印地打ち』という風習があったが、負傷者や死亡者が相次いだために禁止となった。また、印地打ちが禁止になった後、菖蒲を刀の代わりにした『菖蒲切り』というチャンバラが流行した。」「日本においては、男性が戸外に出払い、女性だけが家の中に閉じこもって、田植えの前に穢れを祓い身を清める儀式を行う五月忌み(さつきいみ)という風習があり、これが中国から伝わった端午と結び付けられた。すなわち、端午は元々女性の節句だった。また、5月4日の夜から5月5日にかけてを『女天下』と称し、家の畳の半畳分ずつあるいは家全体を女性が取り仕切る日とする慣習を持つ地域があり、そこから5月5日を女の家(おんなのいえ)と称する風習が中部地方や四国地方の一部にみられる。」。続きは「親仁ギャグ」へ。5月6日記。


固定リンク | 2017年05月06日【89】

太平洋戦争勃発の背景・その2

●真珠湾を慰霊した安倍晋三首相。アメリカの圧倒的物量に工業力、そして軍事力に対して、多くの政治家、軍人は戦争を起こしても短期で負けると考えていた。そこにある戦略を思い立ったのが連合艦隊司令長官であった山本五十六海軍大将であった。
○山本五十六は彼が生まれた時の父親の年が56歳だったので命名された。対米経験があり、大の親米派であったことから、対米戦争を最後まで執拗に反対した。
○戦争が不可避となった時、五十六長官は「敵国民の戦意喪失による早期講和の実現」策として、「真珠湾奇襲」を提言した。
○真珠湾攻撃を手始めに早急に決着をつけて講和に持ち込むことを旨とした。いわゆる「大博打」戦略の「アメリカ太平洋艦隊本拠地・ハワイ真珠湾大規模航空奇襲作戦」である。
○この作戦に対し、軍令部(海軍の参謀本部)はじめ、多くの将校が反対した。その理由は々匐機による艦船沈没は不可能である(当時はそのように考えられていた)、⊃深醢僂漏つ譴浅いため魚雷が使えないこと・・・による。
○しかし、山本長官は従来の60m沈下からその深度を半分の30mにした「浅沈度魚雷」を採用。それでも軍令部の反対は収まらなかったが、「作戦を認めなければ長官を辞退する」との姿勢に1941年10月19日、ついに真珠湾奇襲攻撃作戦が了承された。これより図上演習と作戦の詰めが練られ、真珠湾に地形が似た鹿児島の錦江湾で実習訓練に努めた。
○この真珠湾奇襲に並行して「甲標的」(母艦搭載型潜水艇「特殊潜航艇」の暗号名)という特別攻撃部隊の作戦も具体化していた。「甲標的」は2人乗りの潜水艇で、生きて還られぬいわゆる準「特攻」であったことから、山本長官は岩佐直治海軍大尉が中心となって立案した突入作戦(潜水母艦「千代田」艦長の原田覚海軍大佐が山本長官へ願い出た)を当初は反対していたが、これも岩佐大尉らが執拗に嘆願して、ついに作戦同行を許可した。1941年11月18日、5隻の潜水艦に5隻の「甲標的」が搭載され真珠湾へ出発。
○「ニイタカヤマノボレ一二〇八」。有名な日米開戦の暗号文である。この電文を送受信したのは12月1日であった。北太平洋航路を進行中であった。空母6隻、戦艦2隻、重巡洋艦2隻の日本海軍・第1航空艦隊は、その前の11月26日に択捉島単冠湾を出港していた。
○そして12月8日午前1時30分(日本時間)、183機の第一次攻撃隊が出撃。1時間15分後に、第二次攻撃隊167機が飛び立った。この2度の航空攻撃により、アメリカ艦隊の戦艦4隻を撃沈、1隻を自沈させた。300機を超える航空機を撃破した。
○しかし、大きな戦果にも小さな犠牲があった。29機の未帰還機、50名以上の戦死者あり。航空機攻撃開始の1時間前に攻撃を決行した「甲標的」5隻は、2隻が敵の駆逐艦に発見されて撃沈され、突入した残りの3隻は1隻が座礁、攻撃に成功した2隻も帰還途中に撃沈された。結果、「甲標的」部隊乗組員10名のうち岩佐大佐を含めた9名が戦死、1名が捕虜となった。
○日本軍の最高統帥機関である大本営はその9名を真珠湾の「九軍神」として称えた。真珠湾奇襲の成功は日本中の国民を熱狂させたのである。「九軍神」は戦意高揚の材料とされた。
○宣戦布告前の奇襲は、逆にアメリカ国民を大いに奮い立たせた。日本(山本長官)の考えに反して、アメリカの戦意は燃え上っていった。これが「リメンバー・パールハーバー」である。実際は奇襲の成果も限定的であり、早期の講和どころか、3年8か月にも及ぶ長期戦となったのである。

(1月23日追加)


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