院長コラム

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今週のつぶやき親仁・2020年9月13日(日)〜9月19日(土)

●「猫の冷水

▼日本全体での新型コロナ感染者数は、東京をはじめ減少傾向にありますが、ヨーロッパ諸国や米国でも収まる気配が見えていません。収束に向かっていたかに見えた南半球のニュージーランドやオーストラリアなどでも感染の再燃が起こっているようです。南半球は今から春を迎えようとしているのにであります。主人先生の「今月の旅」も2月をもって中断しております。ともなってその行動範囲も半径2〜3キロ圏内ですから、昔の放し飼いの犬や猫の気持ちも分かろうかというものです。

金之助「主人先生よ、最近書棚を見詰めては何やら昔に読んだ本を取り出しては再読しているようで?」

主人先生「金之助も暇じゃのお。吾輩も暇を持て余してな、いろいろと何を読もうかと漁っているのじゃが、なかなか所望が見つからんでな。読むからには長編大作が読みごたえがあるんじゃが・・・・・・3分の1も半分も読み進んでから飽きたら、こりゃ莫大な時間の浪費になるからな」

金之助「1日に2時間費やして、それが10日ともなれば・・・・・・猫の分際にも計算できるにゃん。そのことで先日、主人先生は故・樹木希林さんの読書観が書いてある新聞かなにか読んでいて、なるほどそういう考えもあるのか?・・・・・・と感心していませんでしたかにゃん?」

主人先生「そうなんだよ、樹木希林さんの曰く、『書棚の本の数は100冊』というものじゃ。むろん新旧交代があって100冊を超えると1冊を知人に譲渡したそうな。人生の羅針盤や肥料となる本の数なんてそんなに多くはないという結論じゃな。吾輩みたいな暇人はもう少し数があるかもしれんがの、なるほど何回も読み返すとなれば100冊が限度でかつ適数かもしれんな。大いに参考になった記事じゃたの。2年ほど前にな、ニシタチの居酒屋さんで初めて遭った初老の男性が、『司馬遼太郎の”龍馬がゆく”の再読回数が5〜6回になる』と言っていたのも思い出してな、そうじゃそれじゃ・・・・・・と『龍馬がゆく』を取り出して再読始めたんじゃ」

金之助「そうにゃんか? 主人先生の歳にもなると余程でなけりゃ新しいものは向かんニャン! 限られた余生、好きなことを好きなようにすればいいにゃん!」

主人先生「そうだな、何でもかんでも新物にトライせずにじゃ、『年寄の冷水』かどうか吟味しないとな」

金之助「『冷水』にゃんか? 近ごろ秋の気配がしてきてにゃん、主人先生の注ぐ飲み水は少し冷いにゃん。こっちのほうも気配りしてくれにゃん!」

▼冬の12月まで2カ月余り、新型コロナの第2波(3波?)の規模は如何なる? 今から本格的巣ごもり (場合によっては冬眠)の仕方を真剣に考えておく時期であります。

9月15日。


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今週のつぶやき親仁・2020年9月6日(日)〜9月12日(土)

●「コロナの秋

▼暑さ寒さも彼岸まで・・・・・・なんて言いますが、最近の朝はムッとこない初秋の空気であります。このままでの秋の訪れなら結構毛だらけなのですが、台風も心配だし夏のぶり返しも気になります。先週は今年初物の伊勢エビを頂き、殊に味噌汁は格別でした。サンマも海鞘も・・・・・・そしてこれからは山太郎も恋しいし、松茸の土瓶蒸しも鍋物もと、いろいろ空想が広がります。そんななか、この秋から来春までの半年間、コロナとどういった付き合いをしていくのか、対策を練らねばなりません。自分の命は自分で守るのが大原則ですから。

二太郎「主人先生よ、最近のお食事会のお開きは随分とお早いようで!」

主人先生「そうなんだよ、昔のことを言っちゃなんじゃがな、40代まではな、ニシタチに毎夜の如く出陣し、居酒屋で腹拵えし、2軒のスナックを梯子し、締めがラーメンか釜揚げじゃった。(時にはラウンジにキャ〇〇〇なんぞも覗いたもんじゃ)。それが歳とともに尻窄まりになってな、50代後半になると居酒屋さんや焼肉屋さんなどで飲食した後は梯子も無しで午前様になることはほとんどなくなったんじゃ。そして今は近くの隠れ居酒屋で早い時間から2時間ほど呑んでそのままの御帰宅じゃからな、吞兵衛も変れば変れるもんじゃ」

二太郎「では若かりし頃には相当呑まれたんですね?」

主人先生「そうじゃな、今から振り返っても呑みに関してだけは全くの後悔なしじゃ。鱈腹呑んだからな。今回コロナが出てからは早く出かけて早く切り上げ、そしてぐっすり寝る。肴も季節のものを少しずつ色々といただく。塩分控えめで味付けも好みに要望するんじゃがな」

二太郎「そんな我儘をきいてくれる店があるわんか?」

主人先生「それがあるんじゃな、和洋中華を極め蕎麦まで本格的にマスターした働き盛りの大将の店じゃ。最近、吾輩はその大将のことを大淀河南の魯山人と渾名しているんじゃがな。彼の北大路魯山人は、著書の『料理大国』で『時と場合、人柄と嗜好とを考えて臨機応変の料理をこしらえる』と書き残しているんじゃ。他にも吾輩の気に入っている店は味付けや食材を問うてくれるから有難いぞ。味の濃さから鷹の爪を使うかとか、肉の焼き加減はミディアムだとか、魚の煮付けに豆腐を何切入れるか・・・・・・といったふうじゃな」

二太郎「主人先生の我儘は家だけじゃないのですね。まあその度合いが過ぎて嫌われないようにしないとね」

主人先生「否々(いやいや)、われわれ世代の中高年はな、個人差はあれ誰もが健康には留意しているからな、塩分や糖分はじめ味付けには敏感じゃからな。長い付き合いならそれくらいのサービスは今後さらに充実させないといかんぞよ。何事も匙加減が料理人の生命線じゃな。生き残りには、魯山人翁曰、『臨機応変』じゃ。その日の食材の質に応じて、臨機応変に拵える。家庭料理はあくまでも素人料理じゃからな。プロの匙加減が食材の持つ個性を最大限に引き出すのじゃ。それができてこそのプロじゃからな」

二太郎「ああ、またいつもの蘊蓄たらたらですか? 分かりました分かりましたよ。もう抗いません。ところで主人先生よ、今日は梨のおやつ(小片)を随分と投げてもらいましたね。相撲じゃありませんが(口で)キャッチできたのは15戦8勝でした。8連勝(8回連続で口キャッチ)の後の7連敗・・・・・・集中力が持続しないことの露呈でした。我ながら情けないですわん。スポーツは毎日が試練、明日の梨キャッチボールも有りでお願いするわん」

主人先生「梨のキャッチボールくらいじゃ運動にならんがな。お互い天高く馬肥える秋にならぬよう注意じゃな。コロナからの脱巣籠の方策も考えんとな」

9月11日。


固定リンク | 2020年09月06日【217】

今週のつぶやき親仁・2020年8月30日(日)〜9月5日(土)

●「食への貪欲さ・魯山人のこと-承継2-
金之助「主人先生よ、魯山人とやら偉い先生がその星ヶ岡茶寮を運営してころの京都から東京まで汽車でどのくらいの時間がかかったのにゃんか?」

主人先生「グッドクエスチョンじゃな。資料によるとな、1930年(昭和5)の東京大阪間が8時間20分とあるから7時間半から8時間弱と云ったところじゃな。今は新幹線『のぞみ』でその所要時間は2時間20分じゃがの」

金之助「そうですにゃんか、8時間もかけて生きた鮎を京都から東京まで、それも鈍行で運んで高級料亭に通う貴人さまたちの口に入ったと云うわけですにゃん。ところでその鮎ですが、そんなに苦労して運ばなくても当時の東京でも美味い鮎はいっぱいいたんじゃないにゃんか?」

主人先生「流石は金之助じゃ、鋭いところを突いてくるな。それはな吾輩にも答えられんことじゃが、まあ強いて言えば、それが魯山人のこだわりじゃったんだろうよ。それはさておき、一般的な美味な鮎はな、先ずはゝ淮の清流で育ち、15〜20cmの若鮎で、川底の日当たり良く、だ酊譴寮个梁(藻類)が健康で豊富で、イ修靴得犬た鮎で、Δつ獲ってからの時間がなるべく経っていないものじゃな。水槽や生簀で3日も泳がせたら鮎の腸(はらわた)は透き通るようになって苔の匂いが失せるからの。そうであるからな、鮎は現地で獲りたてを食らうのがいちばんということじゃ」

金の助「それじゃ今度主人先生の生まれ故郷に僕にゃんも連れて行ってほしいにゃん。6月末か7月の初めが良いと言っていたにゃん。僕にゃんはいつもクロやキハダの鮪か鰹ばっかしにゃんで、川魚はお口に入ったことがないにゃんから、来年は一緒について行くにゃん。鮎の背越をシャキッシャキッやって骨ごといただくにゃん」

主人先生「おおこの魯山人猫、この度の金の助への土産は、鮎の塩焼と鮎寿司だったもんな。あまり所望でないようでプイじゃったからの。わかったわかった、来年は初の長時間ドライブに鮎の背越じゃな、洗いも試してみっか?」() 9月2日。


●「食への貪欲さ・魯山人のこと-承継1-
▼仙台から海鞘が新幹線で東京駅に輸送され、即座にお客の口へ。東京駅のグルメは、田舎者には多すぎて目が回りますが、どの店もぎゅうぎゅうであります。(コロナ前の話ですが。羽田までの時間潰しには格好の選択肢のひとつでしょう)。「東京一番街」に「八重洲地下街」、「ラーメンストリート」に「GRANSTA TOKYO」など目移りが尋常でありません。興味のある店は行列だし、いつの間にか山手線状態です。

主人先生「金之助よ、その東京駅の海蛸じゃがの、テレビのニュースで映っていたのはその一店の『築○寿司〇』じゃと思うがな、客の頬っぺたが落ちていたから、さぞ美味かったのじゃろうな。我ながらテレビに流涎ものじゃったな」

金之助「主人先生よ、その海鞘と鮎と魯山人といったいどんな関係があるにゃんか?」

主人先生「それはな、つい最近の○ピ〇スの鮮魚売り場に海鞘が売られていたのじゃ。北海道産と表示してあったが、調理前の姿で、あえて言えばドラゴンフルーツににている動物じゃ。天然は岩にへばりついていて浮遊する小さな植物が餌らしいな。脊椎動物の近縁で脊索動物といい、動物だから心臓も神経も消化器も持ち合わせているんじゃ。この海鞘に並んで天然鮎も並べてあったのじゃがな、その時、あの新幹線海鞘の映像が重なったのじゃ」

金之助「それは近所のスーパーで夢想に浸れるなんて、なんと幸せなのことにゃんか?」

主人先生「魯山人の『料理天国』に、『私たちの子供の時分によく嵯峨桂川あたりから鮎を桶に入れて、ちゃぷんちゃぷんと水を躍らせながらたついで売りに来たものである。このちゃぷんちゃぷんと水を躍らせるのに呼吸があって、それがうまくゆかぬと鮎はたちまち死んでしまう。これが鮎売りの特殊な技術になっていた。そんなわけで、私は鮎を汽車で京都から運ぶ際に担い桶をかついだまま汽車に乗り込ませ、車中でちゃぷんちゃぷんをやらせたものであった。もちろん駅々では替えさせたが、想い起してみると、随分えらい手間をかけて東京に運んできたものである。たかだか二十五、六年前のことだが。』」

金之助「二十五、六年前とはいったいいつごろの話ですにゃん?」

主人先生「それが驚き桃の木山椒の木なんじゃ。題名は『インチキ鮎』とあるのじゃが、掲載は昭和十年五月の『星岡』五十六号なんじゃから、昭和十年は1935年じゃからな、今から85年も前の昔じゃ。魯山人が亡くなったのが1959年じゃからな、死の24年前の、御年42のころということじゃが、それからすると魯山人が汽車で京都から東京へ生きたまま鮎を汽車で運んだのは魯山人がなんと16歳じゃないか? いくら天才の魯山人でもちょっと若すぎじゃの」

金之助「そう云えば主人先生よ、魯山人という人は『星ヶ岡茶寮』と云う高級の会員制料亭をしていたんでしょ? そのころの生き鮎の汽車運搬じゃないんですにゃん?」

主人先生「ほう星ヶ岡茶寮を知っているとは隅におけぬ猫じゃな。ところがな魯山人が星ヶ岡茶寮に携わったのは1925年(大正14年3月20日)から解雇された1936年(昭和11)まででな、このエッセイが生まれた時から25、6年前はまだ星ヶ岡茶寮には関係しとなんな。と云うことわじゃな、京都から東京まで生きたままの鮎を汽車で運んだのは魯山人が最初ではなかったんじゃな。魯山人は文字通りの波乱万丈、筆舌に尽くしがたい苦労人じゃがな、15、6歳の魯山人は京都で養父の木版の手伝いをしていた頃じゃからな」

つづく。8月31日。


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